バブル絶頂期に就職、仕事に没頭して遊ぶヒマはなかった

馬場 なるほど。そんな経験のなかで、杉本さんとの出会いもあったわけですね。

 そうやって色々なデザイナーの仕事を目にするうちに、「東京に出なければダメだ」とは思いませんでしたか?

橋本 それが、「田舎にいちゃいけない」という気持ちもありながら、ついのんびりしちゃうんですよ(笑)。居心地がよかったんですね。そんな具合だったので、誰か活躍している人が講義にやってくると、パーンとストレートに心に飛び込んでくるわけです。東京にいたら、全く価値観は違っていたと思います。

馬場氏(写真:鈴木愛子)

馬場 卒業してからは?

橋本 卒業と同時に上京しました。

馬場 特に就職の道が見付かったわけではなく?

橋本 見付かっていませんでした。

 でも、東京に出てきて、まずはナンバーワンの人に会いたいという思いはあったんです。電話ボックスに入って倉俣史朗さん(註4)の名前で調べて電話したら、「ここは事務所じゃありません」って。

馬場 あ、ご自宅だったんだ(笑)

橋本 そうなんです(笑)。それで事務所に電話し直したらタイミングよく、すぐに会っていただけたんです。

 日本のインテリアデザイナーの草分けである倉俣さんが、どこの馬の骨か分からないような者に丁寧に対応してくださり、すごくうれしかった。課題でつくった作品の資料などをお見せすると、「そういえば、僕も新しいのをつくったんだよ」なんて、新作の家具の写真を見せていただいたりもしました。今でもキラキラした思い出ですね。

馬場 といっても、倉俣さんのところでは働かなかったんですね。

橋本 スタッフと仲良くなって、1週間だけアルバイトはしました。

 当時、建築家の竹山聖さんが設計したOXY乃木坂のなかに「ルッキーノ」(1987)というバーをデザインしている頃だったんです。ちょうどテーブルの制作が進んでいて、そのお手伝いをしました。透明導電性フィルムを使い、ガラスに取り付けたLEDが配線なしで光るというものです。最近ではインゴ・マウラーなども手掛けていますけれど、当時は最先端でしたね。

馬場 それからスーパーポテトを訪ねたんですか?

橋本 次に訪ねたのが杉本さんのところです。そうしたら、いきなりこっちをにらみつけて、「俺のところに来るのはいいけれど、何でこんな遅い時期に来るんだ!」って(笑)。普通は就職活動でスーツを着て訪問するものなのに、卒業しちゃってから、ふらふら東京に出てきて訪ねているわけですから。さらに、正直につい「倉俣さんのところに行ったんです」と言ったら、目つきが変わっちゃってね。

 ただ、その頃、スーパーポテトはものすごく忙しい時期でしたから、ラッキーにも何となく潜り込めちゃった。

スーパーポテト在籍時の橋本夕紀夫氏(写真:橋本夕紀夫デザインスタジオ)

馬場 その失言にもかかわらず(笑)。で、正式に入社という感じですか?

橋本 何となく……ですかね(笑)。「明日から来い」みたいな流れで、しばらくしたら社員という感じに。

馬場 最初から図面を起こしたりする仕事なのですか?

橋本 基本的には、チーフデザイナーのアシスタントとして現場に行って寸法を測ったり、図面を引いたりという感じでした。

馬場 インテリアデザイナーの仕事としては想像していた通りでしたか?

橋本 想像以上にハードでしたね。もう徹夜、徹夜で家に帰れないんですよ。その頃は本当に忙しくって。結構、体育会系の仕事だなと思いました。

 バブル絶頂期ながら、その恩恵はまるっきり受けていません。「芝浦GOLD」(1989)とか「ジュリアナ東京」(1991)とか行きたくて仕方なかったけれど、ついに行く機会がなかったんです。

馬場 でも、ものをつくる職種だと当然そうなりますよね。スーパーポテト在籍時に、具体的に立ち上げに関わった店はどこですか?