実例を基に勝手に考える

 「全体を把握」し「軸を複数持って」「新しいことを考え出す」ためには,普段使わない頭を使う訓練が必要になる。いわば頭の体操であって,その一例がケース・スタディである。企業の実例を基にして,複数人で議論したり,自分が当事者であったらどのような手を打つかを考え,発表し合うものだ。ビジネス・スクールでよく実施されている。

 ケース・スタディは事例から何かを学ぶ,覚えるというわけではなく,事例を基に自分自身の頭の訓練をすることが目的である。時間と資金と仕事の状況に余裕がある人であれば,ビジネス・スクールに通って頭を鍛えればいいわけだが,そうしたことができる人は一握りだ。

 以前,別なところに書いた話だが,ビジネス・スクールにいかなくても頭の体操はできる。毎朝,新聞を読み,報道されている記事を選ぶ。そこには何らかの事実と若干の解説が書かれているが,そこに書かれていないことを自分で考えるのである。「私ならこう考える」「報道はこうなっているが実際のストーリーはこうだ」といった具合である。

 この訓練はある経営コンサルタントの方に教えてもらった。「コンサルタントになりたい」と言ってくる若者に対し彼は新聞を読むことを勧め「自分の専門外の記事であっても,それを読んだその場で通説とは異なる指摘をぱっとできるくらいでないとコンサルタントにはなれない」と話しているそうだ。

 今回の原稿のある部分は5月17日の朝書いたが,17日付日本経済新聞朝刊を見ると「国家公務員 省庁間で配置転換」という記事が一面に出ている。これを読み,勝手にあれこれ考える。どう考えても実現は難しい。こう思ったら,今度は実現するためにはどうしたらよいか考えてみる。

 同じ一面には「携帯もIP利用」という記事が出ていた。お恥ずかしい話だが筆者はこの記事の意味がよく分からなかった。筆者は携帯電話を持っていないので,携帯がらみのニュース価値を判断できない。この記事も文章の意味は分かるが,ビジネス・モデルの全体像がよく見えなかった。それでも「この結果,NTTグループ全体のビジネス構造はこうなる」などと仮説を勝手に立てることはできる。頭の訓練なのだから,思い切り勝手に考えればよいのである。

ビジネススクールの本当の価値

 本サイトでビジネス・スクールの話などを持ち出すと「MBAは所詮金儲けの手法に過ぎず,そんなものを学んでもイノベーションにはつながらない」「机上の理屈に強くなるだけで少しも実践的ではない」と反発する人がいるかもしれない。ここで言っているのは「金儲けの手法」「机上の理屈」を学ぶというより,頭の訓練の話である。

 ちょっと脱線するが,筆者もかつては,ビジネス・スクールで教える経営学の世界を冷ややかに見ていた。ビジネスの生きた事例を後から解釈しているだけではないかと思ったし,経営学のフレームワーク(思考のための枠組み)を見聞きすると「こんな単純かつ抽象的な考え方で具体的なビジネスを割り切れるのか」と首をひねっていた。

 記者活動をしていても,外資系のコンピュータ・メーカーやソフト会社の発表会に出るとしばしば退屈していた。彼らのプレゼンテーションは,製品や技術そのものを説明する前の能書きが長い。顧客動向とか時代の流れ,製品コンセプトやポジショニングなどが,綺麗なマトリクスやポートフォリオ・チャートに表現されているのだが,絵空事にしか見えなかった。「お絵かきはいいから早く販売戦術とか価格体系とか具体的な説明をしてくれ」と不遜なことをつぶやいていた。

 ところが日経ビズテックの開発を通じて,この手の抽象化の重要性がようやく分かった。現実の具体的な世界にはダイヤモンドが落ちているかもしれないが,その何百倍もゴミが落ちている。ゴミの中をうろうろしていると何をしているか分からなくなってくる。経営学のフレームワークやマトリクスは,ごちゃごちゃした現場に大きな軸を立てて,現場の掃除と頭の整理をする作法に過ぎないので「実践的でない」と批判するのは筋違いと言える。掃除をした後に,ダイヤモンドを拾う「実践」がある。

「イノベーションをマスターする」

 新聞記事を読んで頭の体操をすることは意味があるが,新聞だけ読んでいてもあまり軸は見い出せない。あらかじめ何らかの軸を頭の中に仕入れておきたいという人に向けて一冊の本を紹介したい。『イノベーション新世紀』という,日経情報ストラテジーの別冊である。英国の経済紙FINANCIAL TIMESに掲載された特集企画『MASTERING INNOVATION』を全訳したものだ。イノベーションに関する論文が16本掲載されている。論文といってもどれも非常に平易であり長くもないから,30分あれば1本の論文を読める。巻末に16本の原文が掲載されているので英語の勉強にもなる。

 お断りしておくが,この本は知識を獲得する教科書でも,明日から使える即戦力を身に付ける実務書でもない。この本を読んで「なんとかスキルがアップする」可能性はあまりない(英語は達者になるかもしれない)。原題に「イノベーションをマスターする」とあるが,この本はイノベーションに関する様々な「軸」を提示するもので,軸をどう使うかは読者に委ねられている。読者がどの程度まで自分で頭の体操をするかによって本書の価値は決まってくる。

 例えば「思いこみが失敗につながる イノベーションの7つの神話」という論文がある。これはイノベーションの通説を7つ挙げ,それをひっくり返してみせたものである。これを題材にごくごく簡単な頭の体操をやってみる。7つの軸を,筆者が手掛けた日経ビズテックの開発プロジェクトに当て,プロジェクトの反省をしてみたい。

1.多くのアイデアはいらない
 大事なことはアイデアの数ではなくて,アイデアの孵化器であるという。新雑誌の開発を始めた当初は「まったく新しい雑誌を作る」といって随分色々なアイデアを出した。しかしそのほとんどは使わなかった。

2.専門部門だけではできない
 イノベーションというと研究開発部門の専属事項という誤解を指摘している。新雑誌の開発には,筆者のような記者・編集者に加え,広告担当,販売担当,Web担当,調査といった多くの人が関連する。問題は多くの専門家を集めたチームの運営であった。

3.人々を解放してはいけない
 よいアイデアを出すには人々に自由を与えればよい,という考えはごく一部の企業にだけに許される。縦割り組織の会社に自由を持ち込むと破滅的結果に終わるという警告。新雑誌の開発当初は相当な時間が与えられたが,締切を厳密に管理しないとアイデアも出せなかった。実際,企業の新規事業開発部門の人に会うと「現場と違って時間も金も余裕があるのですが,かえってプレッシャーになり,具合が悪くなってしまう人もいます」などと言う話になる。

4.過去から離脱してはならない
 企業にも人にも得意分野があり,そこを断ち切ってもろくなイノベーションにならないという指摘。筆者の得意分野は情報システム関連であるが,日経ビズテックは当初意識的にこのテーマを扱わないことにしていた。しかし発刊後,イノベーションという切り口でITのことも採り上げつつある。

5.間違いは利益を生む
 初期にあれこれ間違ったほうが最後に成功する。これについては考え込んでしまったので記述を省略。間違いはたくさんしたので,この指摘通りならめでたいことになるはずだが,まだそうなっていない。

6.遠回りが目的地
 目的地を明確にして猪突猛進するとかえって失敗するという指摘。新雑誌の開発を始めた当初のメモを見ると,現在作っているビズテックのコンセプトは当初から指摘されていた。ただしそれをまとめることができず遠回りをした格好である。

7.新しいものを作らなくてもよい
 イノベーションだからといって,まったく白紙にすべてを描こうとすると大変である。今まであったものを組み合わせても結果として,不連続な成果が出ればそれでよいわけだ。ビズテックのプロジェクトにおいては,紙の雑誌以外の事業モデルもたくさん考えたが,結局,有用なものとしては紙の雑誌あるいは本だけが残っている。

IT専門家だからこそIT以外に頭を使う

 本稿の締めくくりに『イノベーション新世紀』にどんな軸が書かれているかを紹介したい。以下は本書の目次を抜き出したものではなく,筆者がいくつかの論文の主旨をまとめたメモである。

●本業以外の新事業が失敗する理由(インテルやマイクロソフトが本業以外の新規事業をなかなか育てられない話)
●不連続なアイデアを拾い出して育てる10のアプローチ(外部の操作能力を高めよ,など)
●イノベーション・ネットワークのマトリクス分類(目標の過激さと企業の同質性でプロット)
●貧乏会社が低予算で何とかする方法(メキシコのセメント会社のイノベーション事例など。筆者はこの論文が一番面白かった)
●よきパートナー企業を探す方法
●セオリー志向型プラニングの7つの原則

 ITの世界は勉強することばかりである。しかしIT専門家だからこそ,たまにはITを離れ,広義のイノベーションのことを考え,普段とは違う頭を使ってみてはいかがだろう。

(谷島 宣之=日経ビズテック・日経ビジネス・日経コンピュータ編集委員)

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