学生たちは,ある書店から書籍のインターネット販売システムの構築を受注した。在庫管理機能は既存システムから流用できる。だが,新規開発する顧客管理機能と在庫管理機能を連携させるには,既存システムのドキュメントを読み解かなくてはならない。顧客側の担当である書店の店長からシステム要件をヒヤリングする必要もある。

 慣れない作業に戸惑いながらも,学生たちはプロジェクトを進めた。契約,概要設計,詳細設計,開発,テストとなんとか工程を進めていった。ようやくシステムが完成に近づいたとき,店長は仕様変更を求めてきた。さて,要求を受け入れてもシステムを期日までに完成できるのだろうか――。

 学生ベンチャーの内幕を紹介しているわけではない。これはシステム工学を学ぶ大学生向けの授業の様子である。函館市にある公立はこだて未来大学は昨年度からこうした実習を実施している。6人1組で仮想のソフト会社を“創業”し,実際のシステム構築のプロセスを学んでいく。昨年,この実習を履修した学生3人に話を聞いたところ,「契約や仕様書作成の大切さが身にしみた」と異口同音に指摘した。

「もっと実学を」,産業界から悲鳴

 大学におけるIT教育にようやく変化の兆しが見え始めた。はこだて未来大学のように,理論中心から実学中心へ,大きくカリキュラムをシフトする動きが出てきた。その背景には,産業界の危機感の高まりがある。

 日本企業の国際競争力を高める上で,情報システムの活用は欠かせない。そのためには,優れたITプロフェッショナルの存在が不可欠であることに異論はないだろう。しかし,大学をはじめとする日本の教育機関は,ITプロフェッショナルの育成に無頓着でありすぎた。

 「海外と比較すると,日本の情報処理専攻の学生のレベルは格段に落ちる」。はこだて未来大学の“実践教育”の仕掛け人で,新日鉄ソリューションでシステム研究開発センター所長を務める大力 修取締役は危機感をあらわにする。同氏はここ10年,海外の大学を毎年訪問してきた経験を基に断言する。「日本と海外のITプロフェッショナル教育のレベルは,差は広がる一方。このままでは日本のIT業界は世界に大きく遅れを取ってしまう」

 日本IBMでプロジェクト・マネジャやSEの能力強化に取り組む冨永 章専務執行役員も,学生や若手ITエンジニアの知識レベルに危機感を抱く一人だ。「日本の学生は,システム構築に必要な知識を大学でほとんど学んでいない。中国の学生にはCMMIやPMBOKが半ば常識なのに,日本の学生の多くは名前さえ知らない。このままでは日本のソフトウエア産業は完全に空洞化してしまう」

 もちろん学校で学んだ知識の量で,その後のITプロフェッショナルとしての能力が決まるわけではない。就職したベンダーの教育体制や本人の意欲で,その後の伸びは大きく変わってくるだろう。しかし,それでもスタート時点での差が大きなハンディとなることは間違いない。

実学教育を軽視する風潮が

 国内の大学には「情報」を冠した学部・学科が無数にある。由緒正しい「情報処理学科」だけでなく,最近は「環境情報学」とか「情報ネットワーク学」といった名称の学部・学科も目立ち始めた。

 だが,筆者が取材した範囲では,ITプロフェッショナルに必要とされる実践的な知識を体系的に教えている情報関連学部・学科はほとんどなかった。教育の内容はコンピュータやソフトウエアの「理論」に関するものがほとんど。システム構築の現場で求められる知識,例えば業務分析や要件定義の手法は,すみに追いやられているのが現実だ。

 理論教育の重要性は否定しない。だからといって,「大学教育があまりにも実務とかい離しているため,企業は入社した学生に一から教育せざるを得ない」(新日鉄ソリューションズの大力取締役)状況は日本のIT産業にとって,決して好ましい状況ではない。

 今こそ大学は,システム工学についての本当の教育に乗り出すべきだ――。こう主張するのは簡単だ。しかし,そう簡単にコトは進まない。調べれば,調べるほど,ITエンジニア教育問題の根は深い。

 最初に問題になるのは,教員のスキルだ。産学の間に高いカベが存在する日本では,実際のシステム構築に携わった経験を持つ教員はほとんどいない。銀行の勘定系や製造業の生産システムといった大規模システム構築の現場を知る教員は皆無に近いと言ってよいだろう。「大規模システムの構築を経験していないと,システム構築の実際を教えるのは難しい」。豆蔵の羽生田栄一取締役会長は,こう指摘する。「プロジェクト規模の拡大に伴って発生する問題は,個人や大学レベルのソフト開発では絶対に経験できない」

 それでは実務経験の豊富な民間のITエンジニアを大学に迎え入れ,学生教育にあたってもらってはどうか。これもまた難しい。大学側の抵抗もさることながら,民間側のモチベーションが高まらないからだ。

 一般に大学の給与は民間よりも低いので,優秀なITエンジニアが進んで大学に転職しようとは思わない。給与の低下を省みず,大志に燃えるITエンジニアが大学に移ったとしよう。しかし,その高い志をキープするのは並大抵ではない。「大学では熱心に学生を教育しても,なかなか評価されない」(慶應義塾大学環境情報学部の大岩 元教授)からだ。

 日本の大学のほとんどは研究実績で教員を評価する。教育面の努力/実績は軽視されがちだ。これではモチベーションは保ちにくい。教育面の実績で教員の評価が決まる米国とは対極にある。基本的に米国の大学では,まだ実績の少ない若い教員は,研究者ではなく,教育者と遇される。講義の内容がつまらなければ,すぐに学生から糾弾され,見放される。定期的に実施される学生アンケートで低い評価しか得られなければ,翌年の給与がすぐに下がる。最悪の場合,大学を追われる。

企業側にも問題がある

 大学だけが悪いわけではない。問題は学生を採用するITベンダー側にもある。

 日本のITベンダーは「そもそも学生に専門性をあまり求めていない」(慶應大学の大岩教授)。ITベンダーが文系出身の学生を「SE候補生」として大量採用していたのはその象徴だろう。最近はだいぶ変わってきたが,入社時のスキルは,当面の間,給与にほとんど反映されない。一生懸命システム構築の勉強をしてきた学生も,会社に入って初めてコンピュータを触った学生も同じように処遇されるのなら,あえてシステム構築を学ぼう/教えようという気にはならない。

 米国と比較ばかりするのも興ざめだが,やはりこの点でも米国は一歩先を行っている。米国企業は,学部卒はともかく,修士課程を終えた学生は職種別に採用する。日本のように「技術職」や「総合職」といったおおざっぱな職種別採用ではない。「この程度のスキルであれば年俸○万ドル」と言った形で,業務を遂行する上で求められるスキルと待遇がダイレクトにリンクする。

 学生はよりよい報酬を求めて,ひたすら勉強する。大学の教官もよりよい報酬を求めて,講義内容の充実に努める。この好循環が米国のIT産業を強くしている要因の一つだろう。人材の流動性が高く,産学を行き来する講師が多いことも,実践的な教育プログラムの提供に役立っている。こうした図式は米国だけでなく,インドや中国でも見られる。

このままでは国が滅びる

 1980年代,米国のレーガン大統領(当時)は,「国家衰退の原因は教育にある」と考え,教育改革に力を注いだ。ゆとり教育への道をひた走る日本をしり目に,教育内容を充実させた。教員の待遇改善にも予算を割いた。レーガン大統領によって始まった改革は実を結び,米国を世界経済の主役に返り咲かせる原動力の一つになった。

 「ITが企業を支える」と言われて久しい。ITは企業の優劣を決めるだけでなく,国の競争力も大きく左右する。「資源のない日本は,知恵でメシを食うしか道はない。知恵という競争力がなくなったら,日本は食いっぱぐれる」(新日鉄ソリューションズの大力取締役)

 日本はITエンジニア予備軍に対する教育のあり方を考え直す時期に来ている。先述のように,大学をはじめとした教育機関だけが悪いのではない。さまざまな要因が絡み合うだけに,一筋縄では解決できないのは確かだ。しかし,それぞれの組織が問題を認識し,少し動くだけでも違いは現れる。小さな動きは大きなうねりを生み,状況を好転させる。

 すでに小さな動きは始まっている。冒頭で紹介したはこだて未来大学は,一例に過ぎない。今春には,北海道大学大学院で,システム構築の実践教育が始まった。オープンシステムによる設計・開発,システム構築プロジェクトの課題を研究する講座ができた。新日鉄ソリューションズ,日本IBM,富士通など国内ITベンダー16社が共同で1億5000万円相当の人件費,ハード,ソフトを負担している(詳細は「日経コンピュータ」2003年5月19日号,20ページを参照)。

 東京都立科学技術大学もこの10月から,富士通や河合塾と協力してシステム構築の実習を開始する。システム構築の経緯を体験できる実習を用意して,「知識の使い方」を学べるようにする。同大の石島 辰太郎学長は,「この実習の設置を契機に,知識偏重型の大学教育カリキュラムを変えていきたい」と意気込む。「大学を卒業したら,すぐにシステム構築のプロジェクトに参加できる人材を輩出することが目標」と続ける。

 もちろん,石島学長が理論研究の重要性を否定してわけではない。それは筆者も同じだ。だが,大学をはじめとする高等教育の役割は理論研究だけではないはず。社会に役立つ人材を育てることも,立派な任務である。

 なお,日経コンピュータは現在,「ITプロフェッショナルの教育とキャリア」に関する特集記事を企画しています。取材の一環として,ITプロフェッショナルの方々が学生時代,何を学んできたかを調査中です。よろしければ,こちらのページからアンケートにご協力ください。ITプロフェッショナル向け教育に関するご意見もお待ちしています。結果は,上記の特集に掲載するほか,IT Proサイトでも概要をお伝えする予定です。

(高下 義弘=日経コンピュータ)