ガメコム・プロジェクト始動

 同じころ、社長の山内も付き合いの深い玩具店などから話を聞いて家庭用ゲーム機のビジネスに興味を抱いていた。社長が上村に家庭用ゲーム機開発の話を持ちかけたのは1981年10月のことである。山内もゲーム&ウォッチはやがてすたれ、次世代の商品が必要になることを感じとっていた。

 上村はさっそく、開発第二部に残っていた若手の技術者に実現の可能性を探らせる。その若手技術者の1人が中川克也(現、開発第二部課長)である。

 中川は1979年に任天堂に入社した。同社の宇治工場で保守などの業務を担当し、しばらくして開発第二部に配属になった。レーダースコープやドンキーコングのハードウエアを担当した。

 中川は任天堂への就職面接で、「個人の発想や着想を正当に評価して欲しい」と堂々と主張した個性派である。面接に立ち会った上村は、風呂場で歌うカラオケ・セットを趣味で作ったという中川をぜひ採用したいと思った。

 上村の推薦もあり、任天堂に入社した中川はファミコンやスーパーファミコンの開発を通して、上村のパートナとして力を発揮する。家庭用ゲーム機が実現可能か否かを探る仕事は中川にとってファミコン開発に携わる最初の作業となった。

 中川が出した結論は、業務用ゲーム機のドンキーコングの回路をもとにIC化すれば、家庭用ゲーム機が実現できそうだというものだった。1982年春、いよいよ具体的な開発プロジェクトが立ち上がる。開発するゲーム機のコード・ネームはガメコム(GAMECOM)と命名された。

 上村のグループが技術重視で開発したレーダースコープ、そのハードウエアを救うために考案されたドンキーコングというゲーム・アイデア、そのドンキーコングをゲーム&ウォッチで遊ぶために開発した十字ボタン。ファミコンを実現するための要素はすでにそろっていた。

 当初数名でスタートしたガメコム・プロジェクトからファミコンが生まれるのはそれから約1年後である。

出典:日経テクノロジーオンライン 2017年5月29日公開
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