アラン・ケイが1972年8月に執筆した「すべての年齢の『子供たち』のためのパーソナルコンピュータ」を踏まえて、41年後に書き下ろしたエッセイ「Dynabookとは何か?」の全文を掲載する連載の第3回目。Dynabookのアイデアを得た同氏いた1960年代後半の時代背景について解説し、Dynabookなどがもたらす教育の目的について考察している。(ITpro編集部)


DynaBookのプロトタイプを持つアラン・ケイ(2008年11月5日) "Alan Kay and the prototype of Dynabook,pt.2" by Marcin Wichary is licensed under CC BY 2.0
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 研究を進めていた多くのメンバーが、エンゲルバートと同様の感情を抱いていました。「世界を良い場所に」という動機の大部分は、冷戦やマッカーシズム、国民的英雄の暗殺、人種問題に関する共謀と犯罪、州兵による大学生射殺事件、宣戦なき戦争による何万人にも及ぶ米国民の殺害、カンボジアの秘密爆撃問題などといった“民主主義先進国”アメリカの課題と絡み合っていたのです。

 ローマの詩人ユウェナリスがローマ共和国に対して発した「しかし誰が、保護者を保護してくれるのか?」という皮肉が、まさに60年代の中心課題だったのです。

 トーマス・ジェファーソンが、民主主義について同様の質問をされたときの回答(以下)が、当時頻繁に引用されました。

「社会の究極の力を託すのに安全な場所は、国民以外に考えられない。そして、もしその国民が健全な思慮とともにこの国を導けるほどには啓発されていないと考えるなら、その対応策は力を国民から取り上げることではなく、思慮を教育により与えることである。これが憲法に反する行為に対する、真の対応である」
トーマス・ジェファーソンからウィリアム・C・ジャービスへの書簡、1820年

 その当時、「教育」は単に仕事で勝つため、あるいはソ連と競うためといったもの以上の位置を占めていたのです。「真の教育」こそが“民主主義を標榜する、我が連邦共和国アメリカ”の基盤になると考えられていたのです。

 ジェファーソンの主張は、考えることを学び、十分な知識を得た国民は、今後に待ち受ける荒海(困難)や国民的議論を乗り越えて、「国家という船」をダイナミックに操れるというものでした(逆に言えば、国民が十分に教育されていない場合、共和国は座礁してしまうのです)。

 このビジョンの重要なポイントは、教育の目的は、単一の視点を生み出すことではなく、異なる観点を調和して扱える市民を育成することである、という点です。

 もし今のアメリカ人に「なぜ教育なのか?」と聞いたら、多くの人々は「良い仕事に就くため」とか「アメリカの競争力を向上させるため(最近の大統領たちのお気に入りの台詞です)」と答えることは賭けても良いくらいです。ほとんどの人は子供たちをなぜ「健全な思慮を持ってこの国を導けるまでに啓発された」大人へと導くべきなのかについて考えていないように思えます。そうした「啓発された大人」こそが「力の乱用に対する真の是正になる」ことを理解していないのです。

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