少し前、経済産業省と当社で進めているプロジェクトの一環で、公文俊平先生(多摩大学情報社会学研究所所長)を訪ねた。

 言わずと知れた社会システム論の大家であり、日本における情報社会論の第一人者でもある。ネット社会の在り方について、黎明期のさらに前から言及を重ね、現在も精力的に活動を続けている。

 情報社会論に関する公文先生の論考は、近著「情報社会のいま あたらしい智民たちへ」を一読いただきたい。ここで触れておきたいのは、公文先生が提示するネット社会のビジョンが、一貫して前向きで楽観的(オプティミスティック)だということ。

 私自身、慶應大学湘南藤沢キャンパス(通称SFC)で90年代前半にインターネットの「洗礼」を受けており、基本スタンスは楽観主義者だ。しかし公文先生のビジョンは、その私をはるかに凌ぐ、一点の曇りもない、澄んだ青空のようだった。

 ところが今回、公文先生からうかがったのは、先の著書で触れられている「智民」という概念の定義が、変更を迫られているという話だった。

ITリテラシーを「残念」に使う人たち

 ネットによって知性の高まった「智民」こそが、産業革命に続く情報革命の牽引者であり、彼らの活躍に21世紀の未来が託されている─先に触れた書籍では、文明史の変遷を踏まえながら、こうした主張が打ち出されていた。

 それ自体はまだ崩れていない。しかし、そこに至るまでの道のりは、予想以上に険しそうだという。

 公文先生が語るには、まず「智民」の前段階として、「知民」という存在があるという。ケータイでのメールの読み書きや、パソコンを使った調べ物といった、一般的なITリテラシーを有する人である。この水準に達していないと、現代の日本では、いわゆる「情弱」とされる。しかし、きっかけと習得機会が少しでもあれば、もはや多くの人が克服できるハードルのはずだ。

 一方、「知民」には、「智民」と「痴民」の2通りが存在する。前者は従来の定義通り、ネット空間を縦横無尽にかけめぐり、自らの生活や業務を劇的に変革していける人のこと。

 問題は後者だ。文章を斜め読みしてすぐ批判する「脊髄反射」や、思いこみによる誤解で執拗な人格攻撃を繰り返す「ネットイナゴ」など、ITリテラシーを「残念な方向」に使う人たちが、もはや無視(スルー)できない存在となったのだという。

 確かに、実感も納得もできる話だ。ネットのあちこちで炎上を見かけない日はないし、私自身もしばしば攻撃を受ける。だからこそ、公文先生からのご指摘ということが、私自身には何より衝撃だった。

 とはいえこれは、必然にも思える。ネット利用者が飽和に近づいたことで、痴民の絶対数が増え、それゆえに遭遇しやすくなったのかもしれない。また、産業革命において、生産手段の所有の有無がブルジョアとプロレタリアートを分けたように、情報の活用手段や能力の有無が、智民と痴民を分け、階級闘争や反体制的なイデオロギーが誕生するのも、自然な流れではある。

消費者の「わがまま」と直接向き合う

 ケータイも含め、ネット接続自体はコモディティー化しつつある。それに伴い、上位層での競争が注目されている。そこではアプリやサービスを介して、消費者の「わがまま」と直接向き合わなければならない。既にあちこちで起きているトラブルの実態を踏まえると、容易ならざる状況だ。

 しかしそれもまた現実というもの。むしろネットがようやく社会に浸透したことを、喜ぶべきなのだろう。ネットと利用者の関係は、刻々と変化している。今起こっている現実と対峙し、前向きに進んでいきたい。

出典:日経コミュニケーション 2013年4月号 p.81
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