筆者は、尖閣問題は極めて重要かつ微妙な政治問題と認識しているため、現時点で見解を述べることは差し控えたい。しかし、この問題に付随して発生した次の2件のエピソードは、危機管理の具体論を語るうえで格好の素材である。

丹羽大使公用車襲撃事件

 2012年8月27日、丹羽宇一郎在中国日本大使の乗った公用車が、北京市内を走行中に2台の車両に進路をブロックされて停止したところ、相手車両から降りてきた中国人らしき男が公用車のフロントに掲げていた日本国旗を奪い取るという事件が発生した。このニュースに「中国の反日運動はそこまできたか」と慨嘆された読者も多いだろうが、筆者の頭に真っ先に浮かんだのは、「外務省の危機管理はこれで大丈夫なのか」という疑問だった。

 そもそもこのような場合には、絶対に車両を停止してはならない。相手車両に体当たりしてでも突破するというのがテロ対策上の原則である。VIPの車両を高級車にしているのは、単に豪華だからというわけではなく、妨害車両を跳ね飛ばすだけのパワーと頑丈な車体を備えていることが大きな理由である。

 「そんな大げさな」と読者はお考えになるかもしれない。しかし、外交車両の進路を塞いで停止させようとすること自体、相手が重大な悪意を抱いている証左である。今回は日本国旗を奪い取られる程度(それでも外交的には重大な恥辱であるが)で済んだが、テロリストによって丹羽大使が暗殺あるいは誘拐される可能性も十分に考えられるケースだった。

 「いったん停止して相手の様子を見て、危ないと思ったら急発進して逃げればよい」というのは机上の空論である。高速で回避走行をする車両に銃の狙いをつけるのは容易でないが、近距離に停止した状態であれば、30発入りの弾倉がカラになるまで銃弾を撃ち込むのに5秒とかからないからだ。今回のような状況では、決して車両を停止させずに現場から離脱するのがテロ対策上のグローバルスタンダードである。

 実は日本の外務省でも、ペルー大使公邸人質事件を契機に在外公館の警備を諸外国並みに強化し、公用車の運転に関しても危機管理マニュアルを整備したとされる。それにもかかわらず、このような対応となってしまったのは問題である。いかに立派なマニュアルを整備しても、マニュアルどおり行動できるかどうかは日頃の訓練にかかっていることを忘れてはならない。

 ただし、本件に関しては、もう1つのストーリーの可能性も決して小さくないと筆者は考えている。

 相手車両は進路を塞ぐ以前に、公用車に幅寄せするなどの妨害行為を繰り返しており、その間に相手の様子を分析することは可能だった。そのうえで、「こいつらはテロリストでなく、単なる跳ね上がり者にすぎない。この機会に外交的非礼をとがめて中国当局に『貸し』を作り、反日運動の鎮静化に向けて誘導しよう」と計算づくでやらせたとしたら、丹羽大使はなかなかの策士ということになるが、読者はどう思うだろうか。

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