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 まずは右の写真を見てほしい。読者の皆さんはどのくらい、これらの医学用語を知っておられるだろうか。ちなみに筆者は半分も分からない。

 例えば、写真の中央に見える「洞不全症候群」「胃GIST」「心タンポナーデ」「肝性脳症」などの文字を今こうしてパソコンに打ち込むだけでも時間がかかっている。そして入力したそばから、正しい字になっているかどうか心配せずにいられない。医学にかかわる仕事をしていない限り、多くの人が同様ではないだろうか。

 ましてこれらの見慣れない医学用語を、「医師が走り書きした診断書から読み取ってパソコンに入力してください」と言われたらどうだろう。実は今回の取材で、診断書のサンプルを見せてもらったのだが、走り書きされた筆跡はさながら「ミミズ文字」と形容すべきものだった。まるで外国語の文書のように感じられるものさえある。仮に前述の用語を知っている人でも、診断書を見ながらパソコンに正しくデータ入力するのは困難だろうと容易に想像できるものだった。

 それを中国人の若者たちがほぼ完ぺきにデータ入力し、日本の保険会社に診断書データとして納品している。2010年4月中旬、中国・大連でそうした現場を目の当たりにして驚き、感心した。太陽生命保険から診断書のデータ入力を請け負っている現場を取材させてもらった時のことだ。パソコンの画面に映し出された、自分にはほとんど読めない診断書のミミズ文字を、20人ほどの中国人の若い女性たちが黙々とパソコンに向かい入力していた。誰も無駄話一つせず、キーボードをたたく音だけが小部屋に響く。情報漏えい防止のため、その部屋では電子メールもネットサーフィンもできない。

 筆者は今回、こうした中国・大連でのBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)事例を取材して回った。BPOとは特定の業務プロセスの外部委託を指す。太陽生命がBPOしたのは2年前の2008年5月のことである。今では彼女たちの誤入力率は何と0.01%以下だと聞いてさらに驚いた。中国人の女性たちは日本語のミミズ文字の医学用語をやすやすと読み取り、普通に文章を打っているかのように手早く正確に入力していく。

 「これだけの入力精度を出すのは、日本の入力業者に依頼しても相当難しい」と太陽生命の担当者から話を伺い、中国の底力を感じずにはいられなかった。

7000語以上の専門用語を習得

 太陽生命のBPOの部屋には、壁一面に医学用語が張り出されていた。冒頭で紹介した写真は、筆者がその一部を撮影したものである。そこに勤務する20代の中国人女性たちは、母国語ではない日本語の医学用語を「標準スキル」として7000語以上も習得しているという。電子メールやネットサーフィンが許されず、部屋中に外国語の専門用語が張り出された部屋で勤務するという状況に自分なら耐えられるかどうか、率直に言うと筆者は自信が無い。

 彼女たちが毎週実施しているテストの答案用紙も見せてもらった。「白内障」「腸閉塞」「広汎子宮全摘出術」「眼内レンズ挿入術」「骨折観血的整復固定術」といった単語が延々と続くのを見て、めまいがしそうになった。それだけではない。診断書には「PTGBD(経皮経肝胆嚢ドレナージ)」「EMR(内視鏡的粘膜切除術)」など英語の略字もたくさん出てくるので、これらも同時に覚えていかなければならない。誤入力率0.01%以下という高い入力精度は、これほどの努力に支えられているのである。

 間違いなく、日本語での医学用語の文字入力に限っていえば腕前は超一流だ。いわば「医学用語の入力スペシャリスト集団」である。実は彼女たちは日本語の会話が得意なわけではない。打ち込んでいる医学用語の意味も、おそらく正確には理解していないだろう。最初のうちは、それぞれの単語を記号のように認識しながら入力していたようだ。中国は漢字文化の本場だから、もともと漢字の認識と入力にはめっぽう強い。むしろひらがなやカタカナのほうが苦手らしい。

 日本語の意味を正確に知らないハンデは、訓練で克服している。毎日、朝礼で誤入力した文字を確認し合い、3チームに分かれて入力品質向上のための勉強会まで続けている。チームの先輩が後輩を指導するさまは日本の小集団活動と変わりない。

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