写真 ソフトバンクの孫正義社長(撮影:小林 伸)
写真 ソフトバンクの孫正義社長(撮影:小林 伸)
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 そこには,ここ数年常に通信業界再編の主役として君臨した,かつてのソフトバンクの姿はなかった。

 9月5日午後。東京・霞ヶ関の総務省に突然,黒塗りのトヨタ センチュリーが乗り付けられた。現れたのはソフトバンクの孫正義社長。騒然とする周囲をよそに,悠然とした足取りで10階に向かうと,台車で運んだ数百枚におよぶ書類一式を担当者に提出した。「一生懸命準備しましたので,よろしくお願いします」。ソフトバンクが1.7GHz帯の免許取得のために,携帯電話事業への参入を正式に申請した瞬間だ。

 「今は受験生のような立場。申請を認めてもらえるよう待つしかない」。報道陣を前に,孫社長は神妙な面持ちを崩さなかった(写真)。

審査通過のために「大人」に生まれ変わる

 2004年に米投資会社から日本テレコムを買収し,総合通信事業者への道を本格的に歩み始めたソフトバンク。その後ケーブル・アンド・ワイヤレスIDC(現ソフトバンクIDC)も傘下に収め,着々と地歩を固めていた。成立こそしなかったが,平成電電やYOZANなど,ソフトバンクが触手を伸ばした事業者は数知れない。事業者再編の裏には常にソフトバンクの影があった。

 2004年10月からはかねてからの悲願である携帯電話事業進出に照準を絞った。800MHz帯周波数の割り当てを求め,総務省と真っ向から勝負。新聞への意見広告や総務省への行政訴訟など,その言動は世間の耳目を集めた。

 ところが,800MHz帯への申請を却下された2005年2月を機にソフトバンクは派手な動きを一切止めていた。

 すべては9月5日の書類提出,そして割り当てを受けるための布石。一度は対決した相手の“審査”を通過し,無事に周波数を割り当ててもらうためには,「世間を騒がせず,黙って静かに待つ」(ソフトバンクBBの宮川潤一常務取締役)必要があったわけだ。

 沈黙を守る一方,本業の収益改善にも着手した。「利益を上げることを最優先にする」。申請の約1カ月前,8月10日の決算発表で孫社長は,収益重視路線に切り替えたことを強調した。採算度外視と揶揄(やゆ)されるほど日ごろは強気な発言で鳴らす孫社長も,この日ばかりはその勢いを封印。今のソフトバンクは,「分別のある大人」のイメージ作りに躍起なのだ。

 ここに来て急に黒字にこだわるようになった理由を,宮川常務は「2~3年で一気に拡張してきたグループ内の体制を整理し,利益の出る体質にするのが最大の狙い」と説明する。日本テレコムやケーブル・アンド・ワイヤレスIDCなどを次々と買収した結果,グループ内に重複する部門や資産が目立ってきた。「これらの重複を見直すことでコストを削減し,グループ組織をスリム化する」(宮川常務)と言う。

 ただし理由はそれだけではない。携帯電話事業の免許を確実に取得するためには,本業の黒字化が必要なのだ。総務省は周波数の割り当てに際して,事業者の財務状況を審査項目の一つに定めている。「黒字が必須」という明確な規定はないものの,本業の黒字化は割り当ての確度をより高められる。

 ところが,ソフトバンクBBの場合はADSL(asymmetric digital subscriber line)サービス「Yahoo! BB」を開始して以来,通期では一度も営業損益で黒字を出していない。このためソフトバンクの社内では,とにもかくにも2005年度通期の営業黒字が最重要テーマになっている。

 黒字化のためにまず手をつけたのが,傘下の日本テレコムが提供する「おとくライン」のテコ入れだ。孫社長は,直ちに個人向けサービスの新規獲得営業を自粛。Yahoo! BBの営業活動も一時的に凍結し,顧客を獲得するための費用を抑制する手段に出た。

 実は,おとくラインの個人向け営業活動の自粛には,費用削減のほかにもう一つ大きな理由がある。それは強引な勧誘活動によるイメージ悪化を避けること。「これ以上総務省への心証を悪くすることは避けたい」(ソフトバンク幹部)との思惑からだ。

 おとくラインの営業を巡っては,代理店の強引な営業活動に対して個人ユーザーからクレームが続出した。事態を重く見た総務省は,日本テレコムの倉重英樹・代表執行役社長を呼び出して直々に改善を指導。日本テレコムの信頼を揺るがすまでになっていた。日本テレコムは代理店への指導を徹底するなど対策を施してはいるが,「この大事なときに再び問題が起これば,免許の審査に大きく影響する」(前出の幹部)。これを恐れたソフトバンクが,営業活動自粛を始動したという構図だ。

2006年秋にもデュアルモードのデータ通信を開始

 財務的な課題をクリアするための布石を打つ一方で,携帯電話サービス参入に向けた技術実験も進めている。

 2005年5月以降,ソフトバンクは1.7GHz帯の携帯電話参入に向け,埼玉県さいたま市でカナダのノーテルや日本エリクソンなど複数の基地局メーカーと共にデータ収集に励んでいる。携帯電話の電波の伝播状況や到達範囲といった基礎的なデータ収集から,高速データ通信の実験や無線LANとの通信切り替えといった,実際のサービスを強く意識した実験を続けている。

 ソフトバンクが携帯電話事業参入に当たってポイントと考えているのは,無線LANとW-CDMA(wideband-code division multiple access)方式携帯電話の組み合わせ。「既存の携帯事業者との差異化を図るには,全国に設置した無線LANアクセス・ポイントをうまく組み合わせることが重要」(宮川常務)としている。

 サービス展開の青写真は次のように描く。2006年秋にも一部の地域で始める試験サービスでは,無線LANとW-CDMA方式のデュアルモードのデータ通信端末を提供する。音声サービスは2007年冬をめどに開始。最終的にソフトバンクが描いていた,固定ブロードバンド通信と融合したサービスを2008年ころに提供する計画だ。

 これらすべては,免許の割り当てを受けることが前提になる。「我々の参入によって携帯電話業界に新たな刺激を与えたい」(孫社長)。ソフトバンクの悲願だった携帯参入が,いよいよ現実のものになりつつある。

(蛯谷 敏=日経コミュニケーション

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