日本の雇用流動性は他国に比べ、低いといわれている。一昔前は終身雇用制度が崩壊して転職が当たり前となり、雇用流動性が高まった時期もあった。しかし、最近は長期的な経済の低迷もあり、新卒採用者は終身雇用を望む声が大きいという。

 そんな日本で、IT業界は比較的人材の流動性が高い業種である。だがそれはIT業界内での流動性で、他業種との垣根を越えた流動性ではない。新卒でIT企業に就職して転職する場合、別のIT企業かユーザー企業のIT部門、というケースが大半であろう。

 これは決して悪い話ではない。ITの仕事は専門知識が不可欠であり、そこに市場価値がある。その専門知識を武器にIT業界を渡り歩くのは、かのドラッカー博士のいう「ナレッジワーカー」の典型例といえるだろう。だが、これからは業種の垣根を越えた流動性にさらなる価値が生まれてくるのではないか。今回は筆者の知人2人の例を紹介したい。

 まずは、石油製品業界の営業からIT業界に転職したA君のケースである。当時30歳を過ぎたA君は仕事にマンネリを感じて転職を考えていた。営業職志望でいくつかの求人にも応募してみたが踏み切れない。悶々としていたときに取引先の社長が「ウチのシステムをやっているIT会社の社長に紹介してやろうか」と声を掛けてくれた。

 IT業界を全く考えていなかったので最初は面食らったが、目を掛けてくれていた取引先社長の紹介ということもあり、IT社長と面談してみるとトントン拍子に決まってしまった。これも縁と思いIT業界に飛び込んだ。

 最初の1年近くは分からないことだらけで大変だった。特にA君が苦労したのは提案書の作成である。石油製品の営業では各社が基本的に同じもの(ガソリンやアスファルトなど)を売っているので、差は価格しかない。提案書は無用の世界であった。

 ところがIT業界は、ソリューションやバリューを提案書で示し、それが評価されれば高いものでも売れる。A君は必死に提案書作成のスキル向上に取り組み、いつしか社内でも「提案力ならA君」と言われるまでになった。

 ある日、石油製品会社の元上司から連絡があった。新事業が立ち上がるので戻ってきてほしいという。元上司に恩義を感じていたA君は戻ることにした。その新事業でA君は、目覚ましい力を発揮した。それはIT会社で培った提案書作成力である。その新事業は価格だけの勝負ではなく、付加価値の提案が必要であった。他の社員が提案書作成に戸惑う中、A君がバリバリと提案書を作り、コンペに勝つ。今ではA君はその新事業のリーダー格であり、「IT業界での経験がなければ、今の仕事はしていない」という。

 もう一つ、女性Bさんの事例である。Bさんは転職雑誌の記事を書くフリーライターであった。あるIT会社の社長にインタビューしたとき、その事業や社風に強い興味を持った。取材後に思い切って社長に「私も採用面接を受けてもいいですか」と切り出したところ、社長が大笑いして、即採用となった。

 Bさんはその会社で3年ほどITエンジニアの仕事をした後、某転職雑誌社に、IT転職雑誌の編集者として採用された。ライターとITエンジニアの「ダブルスキル」に加え、「IT業界への転職」そのものを実践した経験を最大限発揮している。

 これらは他業種からIT業界、そしてまた他業種へという例だが、逆のパターンも当然あるだろう。

 今の仕事にマンネリを感じるITエンジニアは、思い切って他業種への転職も視野に入れてみたらどうだろうか。そこで成功するもよし、新しい知見を得てIT業界に戻ってきても面白いだろう。すばらしいことに、IT業界の経験はつぶしが利く。ITエンジニアは、日本の雇用に大きな流動性を生む先兵となる可能性を持っていると筆者は考えている。

永井 昭弘(ながい あきひろ)
1963年東京都出身。イントリーグ代表取締役社長兼CEO、NPO法人全国異業種グループネットワークフォーラム(INF)副理事長。日本IBMの金融担当SEを経て、ベンチャー系ITコンサルのイントリーグに参画、96年社長に就任。多数のIT案件のコーディネーションおよびコンサルティング、RFP作成支援などを手掛ける。著書に「事例で学ぶRFP作成術実践マニュアル」「RFP&提案書完全マニュアル」(日経BP社)、
出典:日経SYSTEMS 2012年10月号 p.8
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