歴史を見ていくと、環境の変化によって滅んだ文明が意外に多いことに気がつく。気候変動などは、歴史を見る際にもっと語られてもよい視点である。例えば浅間山が噴火しなければ、フランス革命があの時期には起こらなかったかもしれないのである。こうした視点で、平安時代末期に活躍した平清盛とその時代を眺めたら、どのような分析になるのであろうか。

 環境思想に限らないが、あまりにも進みすぎていることは同時代の人には理解されず、後の世になって再評価されることが多い。先行しすぎた人物には悲劇性がつきまとう。聖者の中の異端であったアッシジの聖フランチェスコはエコロジー時代になって脚光を浴びることとなった。平清盛という人物も、同時代の人が見えないものを見る力を持っていたため、行おうとしていたことが誰にも理解されず、「横紙破り」という評価を一方的に下された悲劇の英雄である。清盛の眼力のすさまじさは、今日の神戸の繁栄で一目瞭然であるし、織田信長の叡山焼き討ちに先駆けること400年前に、政教分離を打ち出していたことからもわかる。この清盛の時代、地球は温暖期であった。

 平家と源氏の力関係を見るとき、それぞれが最終的に地盤とした西国と東国の力関係から見ていくと興味深い。気候変動によって西国優位と東国優位とが入れ替わるからである。地球全体が温暖なとき、東国は豊かになる。東国の中でも関東の土地生産力は全国でもずば抜けていた。縄文時代中期には関東の人口密度は日本一で、他を寄せ付けない高さである。なにしろ100平方キロ当たり300~450人で、狩猟採集社会としては世界でも有数だ。最も発達した例とされる北米の北西海岸に居住する先住民族でさえ、人口密度は100平方キロ当たり100人である。日本の中でみれば近畿地方の37~56倍にもなっていたのである。

 しかし、地球が寒冷化していくと状況は変わる。東国での果実生産は落ち込み、西国が相対的に豊かになるからである。これに弾みをつけたのが、稲作である。稲作は大量の水を必要としたから、水源の近くが有利である。平野の中に井戸を掘るという作業を繰り返すよりも、大量の水を供給する保水地・河川近くの方が楽に開墾できる。手間の少ない河川流域から稲作は拡大していく。河川と狭い平野が多い畿内が有利であることは一目瞭然である。近畿を中心とした地域が、次第に日本の中心になっていった。近畿を含む西国は、社会が高度に発達し、複雑化していく。

 アダム・スミスは『国富論』の中で、社会の発達とは分業の発達であると喝破したが、西国では分業が進んでいった。武士もまた職能化していったのである。ところが関東を含む東国の様相は全く異なったものであった。畿内があらかた開墾されつくした後も、関東では広大な未開拓地が残っていた。

 肥沃で広大な関東平野では、奈良~平安時代にかけてが大開拓時代である。それなりの資力を持った者が、大規模開墾を行っていった。平家の祖である平高望も、そうした一人で、関東に一大勢力を築いていった。関東八平氏に代表されるような、各地に散らばった平家一門は、「平」姓から、別姓へと変わりつつ開墾を続けていった。

 こうした開拓者にとって、「一所懸命(一生懸命の語源とされる)」に示されるように、土地は命にも等しかった。土地を守るために開拓地主は命をかける。一族郎党を率いて武士団が形成されていった。これは、職能化が進んだ西国武士檀徒とはまったく異なった形態の存在である。関東地方の開拓が進みゆく頃、近畿地方を中心とした西国の覇権は確立していた。近畿中央にとって、関東の開拓地は、新たに組み込まれる植民地にも見えたのである。

 源氏の東国進出は、こうした動きと無縁ではない。河内国や摂津国で小さな領土を保有し、小規模な軍事力しか持たなかった源氏は、近畿地方内でも関東から移った平家の本流・平貞盛が形成していった伊勢平家に押されがちであった。かつて稲作開墾に有利であった畿内の河川流域は、今度はその地形からそれ以上の開墾が出来ず、勢力拡大の歯止めになっていたのである。近畿における新興勢力の伊勢平家は、後発勢力であったために畿内そのものではなく、畿内の外周部に勢力を拡大したから、結果的に比較的広大な勢力圏を確立していたのである。先細りが目に見えている河内源氏の一派が、朝廷の威光を背に、大規模に東国へと介入していくことになる。

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