このコラムで以前,世界的な建築家のレビューのすごさについて書いたが,その巨匠が逝去された。巨匠との仕事の中で,もう一つ強く記憶に残っていることがあるので追悼の気持ちを込めて紹介したい。

 筆者のコンサルティングの仕事の中で,個人を相手にした仕事が一度だけある。もちろんITのコンサルティング会社を経営していると知人からパソコンやインターネットに関して相談されることは多い。しかし,それらは個人的なアドバイスであり,報酬をもらうような仕事ではない。ところが,巨匠の設計事務所から依頼された個人相手の案件は驚くべきものだった。

 巨匠の作品は,都市,空港,美術館,複合施設など大規模なものが有名だが,ごく少数であるが個人邸もある。依頼は,ある資産家の新築邸のネットワーク導入だった。当初は軽く考えていたが,打ち合わせに出向くとちょっとした規模の企業からのオーダーと変わらぬものであった。施主の要望は,全部屋インターネット対応,海外とのやり取りが多いので書斎にはテレビ会議システムを導入。全部屋,廊下,トイレ,浴室に高級スピーカーを配し,シアター・ルームから集中制御する。日本の家屋では,めったにお目にかかれない要求であった。

 正直なところ,AVなどマルチメディア系のジャンルは専門外である。しかし,ITと一緒にAVのプロジェクト・マネジメントも担当してほしいとの依頼であったので,思い切って引き受けることにした。

 建築のマネジメントはシステム構築とよく似ている。似ているというより,システム構築のプロジェクト・マネジメントの原型が建築である。実際,建築の現場で問題が発生する主な原因は,コミュニケーション・ミスであったり,希望的観測で甘い見積もりを出したり,きちんと確認せずに見切り発車で工事をしたりと,システム構築とほとんど同じである。

 施主(エンドユーザー)の要望をきちんと把握して確認を取っておかないと,後日大きな手戻りが発生してしまうことも,システム構築と同じだ。施主が「壁は黄色がいい」と言ったので,業者が原色のような黄色のペンキを塗ってしまう。ところが,施主がイメージしていた色は,もっと淡いもえぎ色に近い黄色であり,施主が激怒して全部塗り直しといったことが起きてしまうのである。施主の要望(要件定義)や建築家の設計(基本設計)が原因の問題点は施工ミス(プログラムのバグ)よりはるかに甚大な手戻り作業を必要とするという原則は共通である。

 工事があらかた終わり,施主に対する内覧会の日が来た。そこで巨匠の登場である。巨匠の仕事はコンセプトとグランド・デザインが主であり,この案件でお会いするのは初めてである。それ以前にも,数回お会いした程度。お会いしてもほとんど挨拶をするくらいで,挨拶してもジロッとにらまれるだけのこともあった。筆者のことなど覚えていないだろうと思っていた。

 ところが,巨匠は筆者のことを見つけるとにこやかな顔で,施主に対して「イントリーグという会社はITのプロ中のプロで,私の事務所はITのことはすべて彼に相談しているのです」と紹介してくれたのである。実際は数件の案件にかかわらせていただいた程度で,その言葉はオーバーであった。しかし,施主に対してこのような褒め言葉をかけていただいたことは素直にうれしく思い,気遣いに感動した。そのことを担当の建築士に伝えると「先生は事務所内ではワンマンでいつも所員を厳しく叱責しているが,施主の前では『彼は非常に優秀なスタッフです』と必ず褒めてくれるのです」ととても柔らかな表情で答えた。

 普段,無愛想で厳しい人の笑顔と優しい言葉は効くのである。それが天才的な建築家であればなおさらである。最後に,お世話になった巨匠 黒川紀章先生のご冥福をお祈りいたします。

永井 昭弘(ながい あきひろ)
1963年東京都出身。イントリーグ代表取締役社長,NPO法人全国異業種グループネットワークフォーラム(INF)副理事長。日本IBMの金融担当SEを経て,ベンチャー系ITコンサルのイントリーグに参画,96年社長に就任。多数のIT案件のコーディネーションおよびコンサルティング, RFP作成支援などを手掛ける。著書に「RFP&提案書完全マニュアル」(日経BP社)
出典:日経SYSTEMS 2007年12月号 15ページより
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