紙に鉛筆で文章を書くように,コンピュータに考えていることを打ち込んで文章を作る──。そのためには,誰でも簡単に日本語を入力できなければならない。これが日本語ワープロ「OASYS」の目標だった。開発を指揮したのは,現在富士通顧問の神田泰典氏。1970年代半ばといえば,新聞社の製版システムや戸籍登録など特殊なコンピュータでしか漢字を使えず,それもオペレータがあらかじめ紙に書かれた内容を打ち込む方式だった。OASYSは日本語入力に適した配列を追求した「親指シフトキーボード」を搭載するなど,当時の常識にとらわれない発想の産物だった。

 神田氏はそれまで開発に携わってきたメインフレーム「Mシリーズ」のビジネスが軌道に乗ると,今度は日本語入力について考えるようになった。1975年頃のIBM互換のメインフレームは,アルファベットとカタカナの入出力しかできなかった。「漢字を扱えないと,同音異義語を区別できないので意味を判別しにくくなる。漢字仮名混じりの日本語を入力できるようにすることは必要だと感じていた」。

最適な入力方式をゼロから考えた

 ただ,それまで日本語入力できなかったのは適切な方式が確立していなかったためだ。日本語入力にはさまざまな方式があるが,1977年当時神田氏が注目した入力方式は三つあった。漢字一文字につきカタカナ2文字を対応させて入力するカナ2タッチ入力(連想式),文字の数だけキーを並べて目的の文字を選んでいくペンタッチ入力,プログラムで仮名を漢字に変換するかな漢字変換である。最初の二つはカタカナの割り当てや文字の場所を覚えなければ効率が上がらず,専門のオペレータでなければ使いこなせなかった。「自分で使ってみたところ,かな漢字変換方式以外は使えないと感じた。当時考えられていたかな漢字変換システムは,一度仮名をすべて打ち込んでから変換するバッチ処理だったので誤変換が多くて怪しいと思われていた。だがこれを短い区切りで対話的に変換できるようにすれば将来性があると思った」。

 日本語入力に適したキーボードも考えた。一般的にはQWERTY配列に仮名を割り当てたJISカナキーボードでカナを入力するか,アルファベットを使ってローマ字入力するものと考えられていた。神田氏はこのような既存の方法にとらわれず,本当に良いと思われる入力方法を探った。「キー入力時の指の使い方を調べてみたら,親指以外の4本のうちどれか2本で同時に打つのは難しかった。親指とどれかの指であれば同時に打っても自然だった」。文字を配置したキーが10文字×3列で30個,右の親指と左の親指それぞれでシフトキーを押すモードとシフトキーを押さないモードの3通りがあるので90文字分を割り当てられた。これを「親指シフトキーボード」と名づけた。

 1978年,試作機の開発に着手。市場の状況を見ると,78年秋には東芝が一足早く初の日本語ワープロ「JW-10」を出荷し日本語ワープロが出始めた頃だった。「富士通のビジネスの中心だったメインフレームなどと違い,オフィス用の比較的小型の事務機械はそれまで扱っていなかった。理屈先行の人は『販路がない』などと文句を言ったが,実際に試作機を使ってみた人はみんな良い評価をしてくれた」。1979年のビジネスシヨウに参考出品。この年の暮れに商品化が決まった。翌年,机の上に載る大きさで270万円という価格を設定し,出荷を始めた。東芝のJW-10の約半額だった。

一般ユーザーにも浸透した

 OASYSは頭の中で考えたことを直接打ち込んでいく使い方を追求するため,思考を妨げないような工夫も盛り込んだ。「ホームポジションのキーを深く掘って認識しやすくしたり,カーソルの点滅をやめたり,命令調のメッセージをやめたりした。メインフレームの場合作り手が使い手にはならなかったが,OASYSのように自分も使い手になったことでこのような工夫を思いついた」。OASYSは初めは速記者に,そしてオフィスや文筆家に予想を超えて普及した。小型・低価格化を進め個人への普及も目指した。

 最近はワープロ自体あまり見かけなくなったが,誰もが使える日本語ワープロが登場した意義は大きい。「OASYSは知的生産を助ける道具になれた。当時のコンピュータは一般の人には無縁のものだったが,最初の接点になれた」と神田氏は振り返った。

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出典:日経バイト2004年9月号 109ページより
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