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 「危ない!」。坂道を登り切るといきなり,ガードレールが眼前に現れた。ほとんど無意識のうちにブレーキを踏む。車体が軽くガードレールに触れたが,何とか大事故にはならなかったようだ。外に出ると,右のライトにヒビが入っていた。幸い走行に支障はない。

 カーナビによれば,今走っている道路は1km近く続く直線のはずだった。だからこそ,減速することなく飛ばしていたのだ。ほぼ直角に曲がるカーブがあるなんて,どこにも表示されていない。最近工事を始めたのかとも考えたが,そういった雰囲気ではない。そもそも,今朝地図データをアップデートしておいたはずだ。何かがおかしい。

 とりあえず難しいことを考えるのは後回し。営業先との約束の時間が迫っている。もはやカーナビは信用できない。1年以上使っていない地図帳を取り出し,先方の住所から目的地を探す。「これなら10分でつけそうだ」。頭に地図をたたき込み車を発進させた。

地図に組み込まれたウイルスが原因

 悪いことがあった後は,いいことがあるものだ。営業先では思いのほか,スムーズに話が進んだ。相手は町の高台に豪邸を構える中堅企業の経営者で,防犯のためにカメラや人感センサーを駐車場や玄関など8カ所に設置したいのだという。設置費用は200万円と高額だが,一発でサインしてくれた。

 鼻歌交じりで運転しながら,市街地に出た。何か様子が変だ。いつもなら渋滞しないような場所に長い列ができていたり,混んでいるはずの大通りがガラガラだったりする。不思議に思いながら,営業所についた。

 事務所に入るなり,後輩の山田が声をかけてきた。「大丈夫でしたか」と言いながらテレビを指差す。

 見ると「カー・ナビゲーション・システムにウイルスか? 全国で事故続発」というタイトルでニュースが流れている。最新の地図データにウイルスが混入したらしい。感染すると,本来の地図に実在しない道を書き込むとともに,渋滞予測サービスに対して偽のデータを送り続ける。帰社時に見かけた長蛇の列は,間違った渋滞情報のせいだった。私同様の事故も多数起こっているようだ。幸い,死者は出ていない。

 部長に200万円の契約が取れたこと,そして車を壊したことを報告した。受注がよほどうれしかったのか,車の方はおとがめなしだった。

 仕事はほぼ予定通り片付いた。「急いで帰れば,試合をリアルタイムで観戦できるかもしれない」。今日はサッカー日本代表の試合がある。サッカー狂というほどではないが,ひいきのチームと日本代表の試合は必ず見るようにしている。

 急いでオフィスを出ると,夜でも消えない真夏の熱気が体を包んだ。

日常生活が台なしに

 バスと電車を乗り継ぎ,家に着いたのが6時30分。汗だくになりながら,自宅の扉を開いた瞬間驚いた。部屋が異常に暑い。出勤の途中,携帯電話を使って夕方からクーラーがオンになるように設定しておいたはずなのに。

 家電を集中管理する家電コントローラを見ると,点滅を繰り返したまま動かない。何度か電源入れ直してみたが,一瞬使えるようになるがすぐに同じ状態になる。仕方がない。明日大家に相談しよう。窓を全開にして,熱気を逃がす。外気もまだまだ暑いが,クーラーがつかないのだから仕方がない。

 風呂をのぞいたが,こちらも予約しておいたはずの湯張りが完了していない。とりあえず,シャワーを浴びることにした。ホーム・コントローラが利かないのでシャワーは水だったが,それほど冷たくはなかった。

 風呂場から出て青い日本代表のレプリカ・ユニフォームを着る。いつもの応援スタイルだ。このユニフォームはテレビ・ショッピングで1年前に衝動買いしたもの。電話で注文していた時代とは違い,今は欲しいと思ったら,テレビに向かって購入ボタンを押すだけで決済が完了する。テレビに住所や電話番号,カード番号が登録されている。ユニフォーム以外にも健康器具やパソコンなども購入したことがある。

 テレビをつけようとしたが,リモコンに反応しない。「一体どうなってるんだ」。今日は朝からおかしなことが続く。何もやる気がしなくなり,ビールと冷蔵庫にあった残り物で簡単な夕食を済ませた後,ベッドに横になった。

 暑さと不安でその日,眠りについたのは空が白み始めてからだった。

パッチ適用に追われる

 家電の不調の原因が分かったのは,次の日の朝だ。朝だと言うのに市の広報車が大きな音を響かせながら走り回っている。

 要約すれば話はこうだ。家電を狙ったワームが猛威を振るったらしい。感染した家電がさらに別の家電を攻撃することでネットワーク全体に混乱が生じた。どうやら,ひどい夜を過ごしたのは私だけではなかった。

 ワームはシステムファイルを書き換えるものではなく,ネットワークから切り離した上でシステムを再起動すれば消える。すでにISP側でワームの拡大を防止する手段を講じており,今ならネットワークにつないでも大丈夫だという。

 指示通りに行ったところ,確かに正常に動き始めた。大変だったのはその後。家じゅうの家電にセキュリティ・パッチを当てる必要があったからだ。製品によっては,ボタン一つでアップデートできるものもあったが,多くの場合,パソコンをつないでファイルを送り込まなければならなかった。結局,作業が終わるまでに3時間以上かかった。

テレビにボットが感染

 悪いことは続くものだ。事件の数日後から,ダイレクトメールがやたらと届くようになった。内容はサッカー関連や健康器具など。驚いたのは,「パソコンの買い替えは3年が目安。あなたのパソコンはもう3年たってますよ」といった類の広告だ。どうやらこっちの購入履歴を知っているらしい。

 ほぼ同時期にクレジットカード会社から「80万円のデジタルカメラを3台買っていないか」という問い合わせもあった。もちろん私は買ってない。購入場所が私の住所から遠いことと,同じ機種を複数台購入していることからカード会社は不審に思って問い合わせたのだという。保険で損害が補てんされるため,実害はなかったが気味が悪い。

 会社で同僚に話したら,同様の被害に悩んでいた。パソコンを使ってWebを調べたところ,そのからくりが分かった。先日猛威を振るったワームは,ある特定メーカーのデジタルテレビに対してボットと呼ぶプログラムを仕込む機能を持っていたらしい。我が家のテレビはそのメーカーのものだった。

 ボットに感染するとその機器は犯罪者が好き勝手に利用できるようになる。カード番号や購入履歴などもボット経由で漏れたのだろう。すでに被害額は日本国内で10億円以上に達している。

*            *            *

 最近,ぼんやり思うことがある。家電がネットワークにつながることで確かに生活は便利になった。しかし,それに伴い犯罪が増長している気がする。

 ネットワーク社会の便利さを知ってしまった今は,この環境を手放すことはできない。しかし,このままネットワークに依存していって大丈夫だろうか。

出典:日経バイト2005年8月号 28ページより
記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります。