国際デザイン競技の審査ではザハ・ハディド案に反対していたが、同事務所の設計に対する誠実さは評価する内藤廣氏(写真:都築 雅人)
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白紙撤回された新国立競技場の旧整備計画で、国際デザイン競技の審査委員を務めた建築家の内藤廣氏は、ザハ・ハディド・アーキテクツの誠実さを認め、その仕事を擁護する。設計の途中段階でも設計チームと連絡は取っていた。内藤氏が「なぜザハ・ハディド事務所が舞台から退場させられたか」を明かす。(インタビューは9月16日に実施)

国際デザイン競技審査委員、東京大学名誉教授
内藤 廣(ないとう・ひろし)

1950年横浜市生まれ。76年に早稲田大学大学院修士課程を修了後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所(スペイン・マドリッド)を経て、79年から菊竹清訓建築設計事務所に勤務。81年に内藤廣建築設計事務所を設立。2001年に東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学助教授、02年から同大学院工学系研究科社会基盤学教授、11年から同大学副学長などを歴任。11年に同大学名誉教授

――新国立競技場の国際デザイン競技の審査委員として参加して、委員会では最終的にザハ・ハディド・アーキテクツのデザインを選定した。

内藤:おかげでたくさんの友だちを失った(笑)。新国立競技場はナショナルプロジェクトなので、国民から歓迎されてつくられる建築であるはず。しかし、旧整備計画はあまりにも多くの「アンチ新国立」が声を上げてギクシャクした。

 僕はザハ・ハディド案に最後まで賛成しなかった1人だった。加えて、審査委員長は安藤忠雄さんなので、これまで表立って話をしてこなかった。しかし、旧整備計画は白紙撤回されて委員は解任された。僕を縛っているものはもうないので、今回のインタビューに応じることにした。

 審査委員会がザハ案を選んだことは、自分の意見はどうあれ、道義的な責任がある。選んだデザインを実現するために最善を尽くさなければならない。ただ、旧整備計画は全体的に立てつけが悪く、いろんなところに無理があった。

 当時を思い出すと、東日本大震災の傷跡が残っていた時期だ。原発事故は収束するのか、復興の見通しは立つのか・・・。そうした空気のなかで新国立のデザイン選定が始まった。正直な話をすると「五輪が来なければ新国立は建たない」と思っていた。震災復興に力を入れており、「防潮堤をどのようにつくるか」などを真剣に議論していた最中だった。頭の中の3分の2は復興に振り向け、残る3分の1で新国立と事務所のことを考えていた。

 震災の現場にいると、(2020年の)東京五輪は無理だろうなと感じることがあった。ただ、東京に誘致できれば日本に違う風が吹くかもしれない。だから新国立デザインの審査委員会も頑張ろう。(2013年の)立候補ファイルの提出に間に合わせよう、と時間の制約のなかで最善を尽くした。

 あれよあれよという間に、2020年オリンピック・パラリンピック開催都市が東京に決まった。誘致成功の背景には対立候補国の失点もあったが、ザハ案のデザインが果たした役割は大きかった。未来的で誰もが驚くデザインのスタジアム。安倍晋三首相の演説からもその実現に向けた本気度が伝わってきた。このときは関係者が皆、アドレナリンが出ている状態で、様々な相乗効果でうまく機能したと思う。

 そのザハ案が安倍首相の決断で白紙撤回となった。行き詰まった整備計画に対して下村博文文部科学相(当時)では決断が下せず、安倍首相のひとつの見識かなと思った。ただ、設計に関わった者たちは「白紙撤回はありだ」と考えていたわけではない。建築には困難があり、その困難を乗り越えていくものだと信じていた。