女子テニスが先兵、「リアルタイム分析」が変えるスポーツ

SAPが仕掛けるスポーツ×IT最前線(上)

2017/11/06 05:00

内田 泰

 「以前はコーチのアドバイスに『OK』とは言っても、内心では同意していないこともあった。しかし今は、iPadで実際に起きたことを示されるとコーチの指示に従わざるを得ない。データが唯一の判断基準になった」

女子プロテニスのアンゲリク・ケルバー選手。元世界ランキング1位でグランドスラムで2回の優勝経験がある
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 この発言の主は、女子プロテニスのアンゲリク・ケルバー選手。2016年には全豪オープンとウィンブルドン選手権という2つのグランドスラム大会で、シングルス優勝を飾り、世界ランキング1位(2017年10月末時点で19位)にもなった、トップ選手の一人である。

 ケルバー選手が戦いの場としている女子プロテニスは、スポーツ界の中でも最もデータの活用が進んでいる競技の一つと言っても過言ではない。競技団体であるWTA(女子テニス協会)は2015年シーズンに、「オンコートコーチング」において、コーチがiPadを使って試合のデータのリアルタイム分析を選手に見せながら、戦術や修正点についてアドバイスすることを認めた。

 オンコートコーチングとは、1セットにつき1回、ゲーム間ないしセット間にコーチがコート内に入って選手にコーチングできる仕組みである。WTAは2008年シーズンにそれを許可。導入によって、選手が試合中にコーチのアドバイスをもらえるようになり、接戦が増えたという。「試合内容に確実に変化が起きた。選手はこれまで、コート上では100%孤独だった。でも、今ではプレーのリズムが悪い時に、コーチからアドバイスをもらえる」(ケルバー選手)。さらに、2015年シーズンからは試合中に対戦相手や自分のプレーをデータで振り返ることができるようになったことで、さらに拮抗した試合が増えているという。

 昨今、ボールや選手のトラッキングシステムの普及によって、プロスポーツの世界では試合のデータを取得して、戦術の構築やトレーニングに活用するのはもはや“当たり前”の状況になっている。しかし、取得したデータをリアルタイムに分析して、コーチングすることが許可されているスポーツは現状、わずかしかない。実はテニスでも、グランドスラムを管轄するITF(国際テニス連盟)やATP(男子プロテニス協会)はオンコートコーチングを認めていない。

 なぜ、WTAはこの先進的な取り組みを導入したのか。そして、どのような技術を使ってこれを実現しているのか――。日本スポーツアナリスト協会(JSAA)が主催したイベント「女子プロテニスを変えるデジタル革命」(開催:2017年9月19日)で明らかになった。

トップで居続けるために改革必要

SAP社Global Technology LeadのJenni Lewis氏。「私はSAP社で一番楽しい仕事をしている」と語る
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   この革新的な取り組みは、WTAとドイツIT(情報技術)大手のSAP社との長期間のパートナーシップの中で生まれた。SAP社は9年前から、プロテニスの大会に関与している。最初は試合を見に来る観客への情報提供などから始め、次のステップとして自社の技術を大会の運営に活用し、現在では「SAP Tennis Analytics for Coaches」というアプリケーションを通じて、選手やコーチに試合のデータを提供している。

 その責任者が、同社Global Technology LeadのJenni Lewis氏である。彼女はこの仕事を5年前にアサインされ、「誰といかにパートナーシップを結び、どうしたらSAP社の技術をテニスのリアルタイム分析に生かせるかを模索し始めた」(Lewis氏)。そして、名乗りを上げたのがWTAだった。

WTA Director, PartnershipsのAmy Hitchinson氏。1年中世界を飛び回っているので、「飛行機やテニスコートも仕事場になる。どこにいても仕事ができるよう、WTAが使う業務ソリューションの多くはクラウドベースになっている」と話す
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 「WTAは女子プロスポーツで世界トップの価値を誇る。この地位に居続けるにはコート上でも、ビジネスでも進化・改革を続けなければいけない」。WTAでパートナーシップを担当するDirector, PartnershipsのAmy Hitchinson氏は言う。

 2006年にはビデオカメラの映像認識によってボールのイン・アウトをライン判定する「Hawk-Eye(ホークアイ)」(現在はソニー傘下の英Hawk-Eye Innovations社)を導入。2008年にはオンコートコーチングを認め、さらにテレビ放送向けに試合のデータを提供するなどして視聴者の体験も向上してきた。WTAはイベントをさらに進化させるために新たなパートナーを探しており、SAP社の提案に興味を持った。

「3年間、選手やコーチに意見を聞きまくった」

 プロテニスのトーナメントは1年の大半、世界を転戦する。WTAの場合、33カ国で57イベントを開催している。このため、WTAは世界4カ所にオフィスを持ち、約100名のスタッフが24時間体制で働いている。「SAP社は自社のソリューションを提案する前に、こうしたWTAの事情を、時間をかけて理解するように努めてくれた。まず、お互いを知り、そして一緒に世界を回るファミリーになった」(Hitchinson氏)。SAP社をパートナーとして選んだ理由を、同氏はこう言う。

 実際、SAP社は選手・コーチ向けの分析アプリを、長い時間をかけて開発した。「設計を始める前に、3年間はツアーに帯同して選手やコーチにどんなデータが欲しいのか意見を聞きまくった。取得するデータは膨大にあるので、どんなデータに絞って見せたら役に立つかを聞いた。そして、4年目からアプリの開発を具体化した」(Lewis氏)。闇雲にすべてのデータを見せるのではなく、ユーザー視点を貫いたのだ。

 では、なぜSAP社というIT企業がテニスというスポーツ向けのソリューション開発に力を入れるのか。「ボールのトラッキング技術は、(他業界の顧客が求める)荷物や車両のトラッキングに応用できる。つまり、ここで得た知見を横展開できる」とLewis氏は説明する。

 SAP社はテニス以外にも、複数のスポーツに自社の技術を適用して独自のソリューションを開発していることで知られる。例えば、サッカーではドイツのプロサッカー1部リーグに属するTSG 1899 ホッフェンハイムで、脛(すね)あてにセンサーを入れて選手の動きをモニターし、プレーを効率化するための分析をしている。勝敗が明らかなスポーツは格好の“テクノロジーショーケース”である上、トラッキング技術などを鍛えるのに適した実験場にもなる。

データ分析で「5~10%は実力アップ」

 SAP Tennis Analytics for Coachesは、コートに設置された8台のビデオカメラ(他に2台が選手の動きをトラッキング)でボールをトラッキングするHawk-Eyeの生データをクラウド上に集積し、選手やコーチから要望の多かったデータや分析結果を専用アプリ上で表示する。データは15秒に1回更新される。

 コーチはオンコートコーチングの際に、WTAが公認したiPadをコート上に持ち込んで、選手にアドバイスできる。アプリ上で参照できるのは、試合のテレビ放送でもよく紹介される、サーブの確率やウィナー(ラリーで相手にボールを触れられずに取ったポイント)、アンフォーストエラー(自分からミスをしたショット)の本数などのほか、サーブを打った方向(フォアサイドかバックサイドか)、フォアとバックのストロークについてコート上のどこから打って、相手コートのどこに着地したかなどがボールの軌道で示される。

進行中の試合のそれまでのショットのデータ。フォアハンドとバックハンドについて、どこから打って相手コートのどこに着地したか、ウィナーが何本か、アンフォーストエラーが何本かなどが一目で分かる。データは、2017年9月の東レ パン パシフィックオープンでの尾﨑 里紗選手のもの
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 こうしたデータから、例えば「相手に押し込まれてミスをしているので、もう一歩ラリーする位置を下げた(自陣の後方に下がる)ほうがいい」などと、試合中に戦術や修正点について確認ができる。「これまでは試合中に選手に指示する際、根拠となるデータがなかった。決してコーチが不要になるわけではないが、データが手元にあることによってコーチが選手にアドバイスしやすくなった」(Lewis氏)。

 なお、試合のすべてのデータはSAP社のクラウド上に蓄積されている。アプリはブラウザー上で動作するので、どんなモバイル端末でも「いつでもどこでも」参照できる。もちろん、試合前や試合後もチェックできる。

 ケルバー選手は、「試合前に対戦相手のデータを見たり、試合後はデータでその日のプレーを振り返ったりする。データは私に、より自信を持たせてくれる。5~10%は実力が上がっている感じがしており、これは世界のトップレベルでは重要なこと」と述べる。

 「重要視しているデータは、相手がどういうプレーをしているのか、どういうサーブをどこに打っているのか、ショットは浅いのか深いのか。それらをチェックして戦術を立てるのに使っている」(同氏)。

 リアルタイム分析というデジタル革命がスポーツの“戦いの場”にまで押し寄せてきたことによって、アスリートにはフィジカルな能力や競技のスキルだけでなく、「データを上手に活用する力」も求められるようになってきたと言えよう。

日本スポーツアナリスト協会は2017年12月2日、スポーツアナリティクス関連のカンファレンス「スポーツアナリティクスジャパン2017(SAJ2017)」を開催する