「行動経済学」はヘルスケアの突破口になるか

人の“性”へ訴える手法を活用した事例に見る

2018/10/10 10:00
伊藤 瑳恵=日経デジタルヘルス

 「過去の大型商品に比べて1.5倍のペースで申し込みが殺到している」――。住友生命保険が2018年7月に発売した健康増進型保険「住友生命『Vitality』」は、9月上旬時点で既に6万2000件の申し込みがあるという。

健康増進型保険「住友生命『Vitality』」(提供:住友生命保険)
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 このVitalityは、従来の一般的な保険商品とは一線を画す仕組みを整えている。まず、Vitalityに加入しない場合の価格から保険料が15%割引される。そして、健康増進の取り組み次第で価格が変動するのだ(関連記事)。

健康増進の取り組みに応じてステータスが判定される(提供:住友生命保険)
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ステータスに応じて保険料が変化する(提供:住友生命保険)
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 つまり、加入者が健康増進のために積極的な行動をとれば保険料がさらに割引され、逆の場合は保険料が上がってしまう。こうした仕掛けは、健康への行動変容という難題に向き合っているデジタルヘルス業界からも大きな注目を集めている。

「90%治る」と「10%治らない」は同じ?

2018年7月に開催された記者発表会の様子
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 実は、この商品には「行動経済学」という考え方が応用されている。健康になれる方法を伝えても、行動に移してもらうことは難しい。そこで、「健康のために行動変容を起こしてもらう手段として行動経済学に着目した」と同社 営業企画部 上席部長代理の樋口洋介氏は話す。

 行動経済学とは、人の合理的ではない行動を分析する学問である。人の行動は心理状態に左右されるため、必ずしも合理的な行動をとるわけではない。行動経済学にのっとることで、そうした人間の“性”を踏まえて行動をコントロールできる可能性があるというわけだ。

 例えば、(1)「500円もらえる」「1000円もらって500円支払う」、(2)「この治療を受けると90%の人が治る」「この治療を受けても10%の人は治らない」は、(1)も(2)もそれぞれ同じ内容を示している。しかし、(1)ではおそらく多くの人が後者の方が損をしたと感じるだろう。そして(2)では、前者の伝え方をした方が「治療を受ける」と答える患者の割合が10%程度高くなることが、東北大学大学院 教育学研究科・教育学部 准教授の吉田沙蘭氏らが行った研究で分かっているという。

住友生命保険 営業企画部 上席部長代理の樋口洋介氏
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 Vitalityの例でいえば、あらかじめ保険料を割り引いておくことで、それが上がることを回避しようとする意識が働き、「健康増進への取り組みを継続することにつながる」と樋口氏は期待する。

 こうした行動経済学の考え方自体は、かねて提唱されてきたが、2017年にRichard H. Thaler氏が行動経済学に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したことで、再び注目が集まっている。最近では、ヘルスケア領域においてもVitalityの事例にとどまらず、行動経済学を応用しようとする事例が、にわかに目立ち始めてきている。

がん検診の受診率を向上させた仕掛けとは…

 例えば、検診の受診率を向上させるための策として、自治体が行動経済学の考え方を使い始めている。多くの自治体では現在、検診を受けてもらうためにパンフレットやハガキを使って受診勧奨をしている。人が合理的なら検診のメリットを正しく伝えれば受診してもらえるはずだが、現実はそうではない。そこで、行動経済学に注目したというわけだ。

 下の写真は、乳がん検診の受診を促すパンフレットである。大阪大学大学院 人間科学研究科 准教授の平井啓氏らが複数の自治体で実証を行った際に使用したものだ。同氏らは、乳がん検診に対する意識に応じて住民を3つのセグメントに分け、それぞれの行動変容を促すようなメッセージを発信した。すなわち、(A)乳がんに対する恐れはあるが検診に行くつもりはない人、(B)乳がんに対する恐れがなく検診に行くつもりもない人、(C)検診に行くつもりはある人、である。

(左上)A「乳がんに対する恐れはあるが検診に行くつもりはない人」、(右上)B「乳がんに対する恐れがなく検診に行くつもりもない人」、(下)C「検診に行くつもりはある人」、に向けている(提供:平井氏)
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 まず、Aの層は、「検診を受けてがんが見つかることが怖い」と考えているため、検診を受けない人が多い。脅威が強すぎて行動変容にブレーキをかけているのだ。そこで、行動経済学の考え方を用いて、検診を“受けない”メリットよりも検診を“受ける”ことのメリットを強調するメッセージを作成した。具体的には、「検診を受けて早期発見できればがんは治せる」という文言を使い、カラフルなデザインで恐怖心を払拭することを狙った。

Aの層に向けたパンフレット(提供:平井氏)
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 次にBの層は、「私は健康だから検診に行く必要がない」と考えている人が多い。そこで、検診を“受ける”デメリットよりも検診を“受けない”デメリットが大きいことを強調した。検診を受けることが今の生活にとってコストになると考えているため、検診を受けないことこそ将来の生活に損失を与えると思わせるように工夫した。パンフレットは暗いトーンのデザインを採用し、「発見が遅れると手遅れになって毎年1万人以上の女性が命を落としている」というメッセージを記載した。

Bの層に向けたパンフレット(提供:平井氏)
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 最後にCの層は、「乳がん検診に行かなくてはいけないことは分かっているが、受診する方法を調べるのが面倒」などの理由で受診していないことが多い。つまり、具体的な計画を立てて実行意図を高める介入をすれば良いというわけだ。そこで、パンフレットの一番見やすいところに、検査を受けるための具体的な手順を分かりやすく記載した。がんのリスクや検診のメリットについては十分知っている人が多いため、「あえて強調しなかった」と平井氏は言う。

Cの層に向けたパンフレット(提供:平井氏)
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大阪大学大学院 人間科学研究科 准教授の平井啓氏
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 その結果、従来自治体が使用していた一律のメッセージを送付した場合と比べると、Aの層は4.7%から17.3%、Bの層は4.6%から13.3%、Cの層は7.3%から25.5%に受診率が向上したという。対象者をセグメント分けし、それぞれに行動経済学の考え方を用いて適切に介入すれば受診率が向上することが示されたのだ。

検診に対する関心によって異なるパンフレットを送付した場合と、一律のパンフレットを送付した場合それぞれの受診率の変化(提供:平井氏)
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「来年度は送付しません」に効果あり

 同様の取り組みは、大腸がん検診に関しても行われた。東京都八王子市では、前年度に大腸がん検診を受診した人に対して、検査キットを自宅に送付することで受診を促していた。しかし、キットを送付しても実際に受診するのは約7割にとどまっており、受診率を向上させるために行動経済学を応用した。

 具体的には、2017年5月に送付したキットを同年10月時点で未使用の住民に対してランダムに2種類のハガキを送付した。それぞれ下記のような文言である。

 (い)今年度も大腸がん検診を受診すれば、来年度も便検査キットを送付します。
 (ろ)今年度に大腸がん検診を受診しなければ、来年度は便検査キットが送付されません。

(い)のハガキ(提供:福吉氏)
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(ろ)のハガキ(提供:福吉氏)
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キャンサースキャン 代表取締役 社長の福吉潤氏
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 その結果、(い)のハガキを受け取った人のうち22.7%、(ろ)のハガキを受け取った人のうち29.9%が大腸がん検診を受診したという。後者の方が受診率が高かったのは、「損失回避性に訴えたメッセージだから」と八王子市の実証に参加したキャンサースキャン 代表取締役 社長の福吉潤氏は説明する。

 従来は、検診に対するメリットを訴えるメッセージが多く用いられてきたが、むしろ“損失”に働きかけることで行動変容を促せるというわけだ。

関心があるうちにすぐにフィードバック

 ケアプロが手掛ける、駅ナカやショッピングセンター、パチンコ店などで受けられる健康チェックサービスにも行動経済学の手法が活用されている。具体的には、血糖値や肺年齢、骨密度などの測定結果を即時にフィードバックする仕組みがそれだ。一項目当たり5~15分で結果をフィードバックするようにしている。

ケアプロの健康チェックサービス(提供:ケアプロ)
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東京大学大学院 医学系研究科 准教授の近藤尚己氏
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 健康診断をはじめとした各種検査は、結果を返却するまでに時間がかかることが多かった。こうしたタイムラグが「健康チェックサービスを受けるハードルになっていた」と東京大学大学院 医学系研究科 准教授の近藤尚己氏は話す。結果を返却する頃には、健康診断への関心が薄れてしまうのだ。ケアプロでは、検査後すぐに結果を通知することで、最後まで利用者にアプローチできるようにした。

ケアプロ 代表取締役社長の川添高志氏
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 実は、同サービスは、主婦や自営業、退職後の人など健康診断を1年以内に受診していない人をメインターゲットと位置付けている。看護師である同社 代表取締役社長の川添高志氏の「健康診断を受診していない人に対して、健康への気付きを提供したい」という思いを反映した。実際、約10万人の年間受診者のうち半数が1年以内に健康診断を受診していない人たちだという。

帝京大学大学院 公衆衛生学研究科 研究科長で教授の福田吉治氏
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 このように、ヘルスケア領域に行動経済学を応用する事例は相次いでいる。ただし、そのメリットは「未知数なところもあるため、今後明らかにしていきたい」と行動経済学について研究している帝京大学大学院 公衆衛生学研究科 研究科長で教授の福田吉治氏は話している。

■変更履歴
記事初出時、ケアプロが手掛ける健康チェックサービスの記述で「肌年齢」とあったのは「肺年齢」でした。お詫びして訂正します。記事は修正済みです。