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「日本の過酷な環境に苦戦した海外製風車」、足利工業大学・牛山理事長に聞く(page 2)

2016/06/29 00:00
金子 憲治
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「山田風車」の成功と挫折

――文明開化によって、西洋の技術がどっと日本に入ってきましたが、風車はどうだったのですか。

牛山 明治維新以降、西洋文化といっしょに横浜の牧場などに水汲み用の風車が、主に米国から入ってきました。米映画の西部劇によく出てくるようなタイプです。明治時代の中頃にはドイツ人が横浜に風力発電機を設置した例もあります。こうした外来の風車を模倣し、いくつか国産風車も試みられましたが、成功には至りませんでした。

 唯一の例外が、第二次大戦直後に北海道で広まった「山田風車」です。民間人の山田基博氏(故人)が独自の工夫で開発した木製の風車で、開拓農家など向けに数千台規模で販売し、農漁村に灯りを灯し、開拓地のシンボルといわれるほど普及しました。

 2~3枚ブレード(羽根)で出力は200~300W、弱い風でもよく回り、強風にも強く、いまから見ても、技術的にたいへん優れたものでした。低速度でも発電する直流発電機を使い、低コストも特徴でした。実は、私は存命中の山田さんにお会いしたこともあり、足利工業大学の博物館にも山田風車の現物を保管しています。

――その後、山田風車の系譜は続かなかったのですか。

牛山 山田風車は、営業的にも成功しましたが、道内の電化が進むにつれて、1960年代にはその役割を終え、山田さんも別の事業で生計を得るようになったようです。

――山田さんは、本田宗一郎や松下幸之助になれなかったわけですね。

牛山 山田さんも本田宗一郎さんと同様、小学校しか出てないにも関わらず、独自の研究と工夫で成功した発明家と言えるでしょう。山田風車がその後、事業的に発展しなかったのは、やはり日本にはもともと風車の土壌がなかったからだと思います。

 デンマークでは、1980年代以降、数十の中小風車メーカーが乱立し、その後、集約されつつ世界的なメーカーに成長していきました(図1)。これは浜松から、ホンダやヤマハ、スズキが成長していったのと似ています。やはり、風車の土壌や自国市場の有無が、企業の発展を左右したと思います。

図1●デンマークのヴェスタス製の風力発電設備(出所:Vestas Wind Systems)
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 その後、日本の風力開発は、1973年の石油危機を受けて始まった政府のサンシャイン計画まで待たねばなりません。同計画は、基本的に太陽光中心で、風力は「その他」扱いでした。それでも80年代には、再エネの1ジャンルとして、明確に位置付けられました。

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