田中耕一氏に聞く、アルツハイマー病変早期検出の意義

ノーベル賞技術を活用、わずか0.5mLの血液から

2018/03/28 10:00
伊藤 瑳恵=日経デジタルヘルス

 わずか0.5mLの血液からアルツハイマー病変を超早期に検出する――。そんな技術を島津製作所と国立長寿医療研究センターが確立した。その成果は、2018年2月1日(日本時間)に英科学誌Natureオンライン版に掲載された(関連記事1)。

 実は今回の成果には、島津製作所の田中耕一氏(同社 田中耕一記念 質量分析研究所 所長でシニアフェロー)が発明し、2002年度のノーベル化学賞を受賞した質量分析技術が使われている。現在、アルツハイマー病など認知症の早期発見に向けた取り組みは数多く進んでいる(関連記事2)。こうした中、今回の成果はアルツハイマー病の診断や治療にどう寄与する可能性があるのか、田中氏など開発チームに話を聞いた。

島津製作所 田中耕一記念 質量分析研究所 所長でシニアフェローの田中耕一氏
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アミロイドβの量を推定できる

 今回の手法で血液から検出するのは、アミロイドβというたんぱく質である。質量分析技術を応用することで、脳内に蓄積しているアミロイドβの量を推定することができるという(詳細は別掲記事「【技術の詳細】3つの工程でアミロイドβの量を推定」を参照)。

 アミロイドβは、アルツハイマー病を発症する10~30年前から脳内に蓄積し始めるとされるたんぱく質である。これまでアミロイドβの脳内蓄積を検出するためには、PET(陽電子断層撮像法)検査や脳脊髄液(CSF)検査が行われていた。しかし、PET検査は高額でCSF検査は侵襲性が高いという課題があった。今回の手法を用いれば、低侵襲かつ安価にアミロイドβを検出できる可能性がある。

 さらに、アルツハイマー病など認知症の診断補助への活用も考えられる。認知症は複数の種類があり、症状だけではどの認知症なのか判別できない場合がある。アミロイドβが蓄積しているかを調べることで、アルツハイマー病か否かを判断する補助となり得る。こうした応用については、早期の実用化を目指しているという。

今回の成果の最大のインパクトは…

使用する質量分析計
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 そして、今回の成果の最大のインパクトと言えるのが、アルツハイマー病の根本治療薬の開発につながる可能性があることだ。現在は根本治療薬は存在せず、治療には進行を遅らせるための薬が用いられている。これまでの根本治療薬の開発は、「既に発症している人を対象にしていたため失敗に終わっていた」と田中氏は話す。「アルツハイマー病は、残念ながらまだ治る病気とは言えない」(同氏)のが現状だ。

 今回の手法では、微量の血液から簡便にアミロイドβの蓄積を検出できるため、適切な被検者を対象にした治療薬開発が行える可能性があると田中氏は見る。実際、既に国内外を問わず、名だたる製薬企業から創薬に向けた受託分析の依頼が届いているという。「一刻も早く根本治療薬の開発に貢献したい」と同氏は意気込む。

 根本治療薬の開発と同時に、田中氏はアルツハイマー病の予防法についても検討していく考えだ。「認知症を発症する前のさまざまな段階にも介入策を講じたい」(同氏)。島津製作所が持つPET装置や近赤外線分光分析法(fNIRS)などもこうした予防法の開発に活用していくという。特にPET装置に関して同社は、「認知症診断への応用を念頭に事業を進めている」と説明している。

“診断”に活用できる可能性も

 これらの根本治療薬や予防法が確立すれば、今回の検出技術を超早期の“診断”そのものに活用できる可能性も出てくると田中氏は展望する。

 ただし、その場合には他の診断法が決して不要になるわけではない。例えば、画像検査で得られる“アミロイドβが蓄積している部位”の情報は、「症状の深刻さを判断するのに役立つ」(同氏)からだ。それぞれの手法によって得られる情報が異なるため、それらを組み合わせる使い方を同氏は想定している。

 島津製作所は現在、質量分析技術をアルツハイマー病以外の疾患の診断や創薬にも応用する研究を進めている。例えば、血液を使って大腸がんや乳がんを診断する方法の研究開発を進めているという。将来的には、一回の検査で採取した血液を使って複数の疾患をスクリーニングすることも視野に入れている。

サンプルをのせるプレート
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質量分析計にプレートを入れている様子
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【技術の詳細】3つの工程でアミロイドβの量を推定


 今回の手法で微量の血液から脳内に蓄積しているアミロイドβの量を推定する際には、大きく3つの工程を経る。すなわち、(1)採取した血液からアミロイドβ関連ペプチドのみを抽出する、(2)アミロイドβ関連ペプチドが血液中にどれだけ含まれているか質量分析する、(3)アミロイドβの脳内蓄積量を推定する、である。

 (1)の血液からアミロイドβ関連ペプチドを抽出するためには、多数のたんぱく質を含む血液から、不要なたんぱく質を取り除く必要がある。そこで田中氏らは、「抗体ビーズ法」と呼ぶ手法を用いた。

 抗体ビーズ法では、アミロイドβ関連ペプチドに吸着する抗体を表面に生やした磁気ビーズを使用する。採取した血液に磁気ビーズを入れ、ビーズに吸着しなかった化合物を取り除く。その後ビーズを排除すれば、アミロイドβ関連ペプチドのみを取り出すことができる。

抗体ビーズ法の概要イメージ(画像提供:田中耕一氏)
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抗体ビーズ法のシミュレーション
磁気ビーズに吸着した化合物だけ磁石で吸い寄せることができる

 次に(2)の質量分析を行う。質量を分析するためには、たんぱく質をイオン化する必要がある。具体的には、(1)で取り出したアミロイドβ関連ペプチドにイオン化を促進する緩衝剤(マトリックス)を添加し、レーザー光を照射することでイオン化する。イオン化したアミロイドβ関連ペプチドが真空中を飛行する時間を使って、質量を算出することができる。

 今回の手法では、3種類の異なるアミロイドβ関連ペプチドを検出する。アミロイドβ関連ペプチドが複数存在するのは、アミロイドβ前駆体たんぱく質をβセレクターゼやγセレクターゼという酵素が切断することでアミロイドβができるためである。切断される位置の違いによってさまざまなアミロイドβ関連ペプチドに分類できる。

 それぞれのペプチドはイオンの大きさが異なるため「質量分析によってそれぞれを判別できる」(田中氏)というわけだ。今回は、アミロイドβ1-40(Aβ1-40)とアミロイドβ1-42(Aβ1-42)、APP669-711の3種類のペプチドを検出することに成功した。

PET検査に対して90%の精度で推定

 最後に(3)のアミロイドβの脳内蓄積量を推定するために、バイオマーカーとしてAPP669-711/Aβ1-42とAβ1-40/Aβ1-42の2つのペプチド比を用いる。比を用いるのは、「質量分析は絶対定量が得意ではないため」(田中氏)である。同じ血液に含まれる物質同士の比率であれば、たとえ採取した血液の量が変化しても変わらないことを利用した。2種類の比率を使用するのは、PET検査の結果に近づけて検出精度を高めるためである。

 検出するアミロイドβ関連ペプチドのうち、アルツハイマー病患者の脳に蓄積するのは、神経を傷つけるといわれているAβ1-42である。アミロイドβが脳に蓄積している場合、脳脊髄液(CSF)中に流れるAβ1-42の量が減ることが分かっている。これを受けて田中氏らは、アミロイドβが脳に蓄積していれば、「Aβ1-42は脳内に溜まろうとするため、血液中にあまり流れ出ない」という仮説を立てた。

 つまり、アミロイドβが脳内にあまり蓄積していない場合は血液中のAβ1-42強度が高く、アミロイドβが脳内に蓄積していればAβ1-42の血液中の強度が低いということになる。Aβ1-42の強度が低いほど、バイオマーカーであるAPP669-711/Aβ1-42とAβ1-40/Aβ1-42の数値は大きくなる。それぞれのペプチド比の値が大きいほど、アミロイドβが脳内に蓄積しているというわけだ。

 ただし、アミロイドβが蓄積している全ての人がアルツハイマー病を発症するわけではない。そこで田中氏らは、アミロイドβが全く蓄積していない人を「Aβ-」、発症の有無に関わらずアミロイドβが蓄積している人を「Aβ+」と分類し、Aβ-とAβ+の境界領域をうまく見分けることに成功した。

「Aβ-」とAβ+の分類(画像提供:田中耕一氏)
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 日本と豪州で60~90歳の高齢者232人を対象に今回の手法で検査を行ったところ、PET検査に対して90%の精度でアミロイドβの蓄積を推定することができたという。アミロイドβが蓄積し始めた状態を検出できるため、「アルツハイマー病を未病の状態から追跡できる可能性がある」と田中氏は話す。

 アルツハイマー病の診断に関して、アミロイドβ以外のバイオマーカーを検出する方法についても開発を進めている。近頃では、アルツハイマー病の診断には、複数のバイオマーカーを見る必要があるといわれているためだ。

島津製作所 田中耕一記念質量分析研究所 アプリケーショングループ 主任の金子直樹氏
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 島津製作所 田中耕一記念 質量分析研究所 アプリケーショングループ 主任の金子直樹氏らは、脳内に蓄積するたんぱく質であるタウの質量分析手法を開発している。タウの蓄積は、アミロイドβが蓄積し始めた約10年後から始まるとされている。タウは血液にはそれほど流れ出ないので、脳脊髄液(CSF)を用いている。今後は2つのバイオマーカーを使ったより正確な検査法を確立することを目指していきたい考えである。


■変更履歴
記事初出時、島津製作所の田中耕一氏の肩書きで「質量分析研究所」とあったのは「田中耕一記念 質量分析研究所」でした。お詫びして訂正します。記事は修正済みです。