これが「VR×ヘルスケア」最前線

疾患体験・治療から介護、フィットネスまで

2017/10/10 11:00
伊藤 瑳恵=日経デジタルヘルス
 私はビルの屋上に立っている。「右足を一歩前に踏み出して」と左側に立つ女性が笑顔で囁く。一歩でも動けば落ちてしまうのに、この人は一体何を言っているのだろう…。右側から男の人の声が聞こえる。「ほら、大丈夫だからもう一度」。私をどうしようというのか――。

空間認知能力の低下している認知症患者の見え方(画像提供:シルバーウッド)
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 これは認知症患者の体験を基に作成したVR(仮想現実:Virtual Reality)映像の一コマである。空間認識能力が低下しているため、実際は車の後部座席から降りるだけの場面でも、あたかもビルの上から飛び降りるかのように錯覚してしまうことを示した映像だ。

 こうした没入感を生みだすVRコンテンツがさまざま登場し始めている。作り込まれた2次元の映像を視聴するのではなく、ヘッドマウントディスプレー(HMD)を使って3次元空間に作られた映像を自分の見たいように見る。いわば“体験”を提供できるツールとして、VRはさまざまな分野にその応用範囲を広げている。

 もちろん、ヘルスケア分野にもVRの波はジワジワと押し寄せている。ヘルスケアの中でも医療分野に限った予測だが、シードプランニングが2017年7月に発表したVR・AR(拡張現実)・MR(複合現実)の市場展望調査によると、2021年には153億円、2026年には342億円の市場規模になる見通しだという。

 VRはヘルスケア分野でどう生かされていくのか。(1)疾患体験、(2)治療、(3)医療情報の可視化、(4)介護、(5)フィットネス、という5つの領域での現在の活用事例を追った(表1)。

表1●VRのヘルスケア活用事例
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「こんなに怖い思いをしていたのか」

 冒頭で紹介した映像は、まさに(1)の疾患体験の領域での活用事例である。このコンテンツ「VR認知症プログラム」を手掛けたのは、高齢者住宅を運営するシルバーウッドである。

空間認知能力の低下している認知症患者の見え方(画像提供:シルバーウッド)
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実際は車から降りるという場面(画像提供:シルバーウッド)
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 認知症患者の実体験や有識者の知見を基に作成した映像を、HMDを装着して患者目線で体験することができる。これまでに、記憶障害や空間認識能力の低下を再現した8つの映像を制作しているという。

シルバーウッド 代表取締役の下河原忠道氏
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 同社 代表取締役の下河原忠道氏は、「認知症になっても暮らしやすい社会を作るために、患者側の視点に立つことが必要だと考えた」と開発の意図を説明する。同氏は、認知症を知るためのセミナーや書籍の多くが、第3者の視点で学ぶものがほとんどであると指摘する。自分は認知症ではないという前提で、認知症にならないためにはという議論が繰り広げられることに違和感を覚えたのだ。そこで「ほかの誰かの視点に立つことができるVRを活用した」と同氏は話す。

認知症患者の体験映像イメージ。存在しない男性が見えている(画像提供:シルバーウッド)
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 これまでに、医療・介護関係者や自治体、中高生に対して体験会を実施している。体験した人からは、「こんな風に見えているのか」「こんなに怖い思いをしていたのか」という声が届くという。座学や書面でいくら言われても頭に入ってこないことが、“自分ごと”として感じられるという。「認知症患者がどういう生き辛さを感じているのかと想像力を働かせる一助になるのではないか」と下河原氏は期待する。

 (1)の疾患体験についてはこのほか、ヤンセンファーマが統合失調症の疑似体験を行うことができる「バーチャル ハルシネーション」を手掛けている。同社のMR(医薬情報担当者)が医療機関を訪れた際に医療従事者にVR体験してもらい、疾患への理解を深めるために使用しているという(関連記事1)。

感覚を失った手足が“動く”

 (2)の治療の領域については、海外ではPTSDや恐怖症の治療に活用する研究が報告されている。日本では、切断または神経が切れて感覚を失った手足が痛む幻肢痛の治療に使おうという事例がある。東京大学 医学部附属病院 緩和ケア診療部 部長で麻酔科・痛みセンター 医師の住谷昌彦氏と東京大学大学院 情報理工学系研究科 知能機械情報学 教授の國吉康夫氏、畿央大学 神経リハビリテーション研究センター 助教の大住倫弘氏、KIDS兼Mission Arm Japanの猪俣一則氏らが研究開発に挑んでいる。

 住谷氏の過去の研究によれば、幻肢を動かせるイメージを抱くことができる人ほど痛みが弱いことが分かっているという。そこで、VR空間上で幻肢が動いているかのような体験を繰り返すことで、痛みを軽減させようという試みである。

VRを使った治療を行っている様子(画像提供:東京大学医学部附属病院)
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VRを使った治療を行っている様子(画像提供:東京大学医学部附属病院)
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 具体的には、右手を切断した患者の場合、左手の動きを赤外線カメラで撮影し、それを反転させた映像をVR空間上にリアルタイムに反映する。すると、HMDを装着した患者には右手が動いているかのように感じられる。VR映像上には、黒点が表示され、それをモグラたたきのように触れるというタスクを与える。「タスクを与えることでより運動しているという実感を得やすい」と住谷氏は説明する。

東京大学 医学部附属病院 緩和ケア診療部 部長で麻酔科・痛みセンター 医師の住谷昌彦氏
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 幻肢痛の治療は薬物療法が一般的である。だが、「必ずしも全ての患者に効果が見られるものではなかった」と住谷氏は話す。鏡に健常な手足を映し出し、あたかも両手や両足が健常に動いていると錯覚させる治療法も開発されたが、この治療を施しても効果が見られない患者が一定数いることが分かっているという。

 VRを活用することで患者の動きと映像がインタラクションするため、鏡を利用する方法以上に「自分の体が動かせているというイメージを具体的に描きやすいのではないか」と住谷氏は話す。障害のある部位の機能回復を図る通常のリハビリテーションとは違い、「幻肢痛の治療は脳に直接働きかける必要がある」(住谷氏)という特徴もVRとの親和性が高いといえる。単純なアニメーション映像ではなく、自分の健常な腕の動きをVR空間に反映することが重要なのだという。

 現在は臨床研究段階。「将来的には保険診療で使えるようにしていきたい」と住谷氏は意気込む。よりゲーム要素を取り入れたプログラムの開発も進めていく考えだ。

臓器が丸見えになる

 (3)の医療情報の可視化については、医療従事者向けの手術支援や、一般の人が医療知識を理解するためなどに活用しようという事例がある。

 主に、画像診断と手術支援へのVR応用に取り組んでいるのが、HoloEyesである。自身が外科医である同社 取締役 COOの杉本真樹氏は、「開腹手術に比べて難易度の高い腹腔鏡手術の支援ツールとしても有用である」と話す。腹腔鏡手術においては、手術を平面的な内視鏡画像を見ながら行うため、光源がカメラに付いていると、上部から光を当てる開腹手術とは異なり「奥行きがわかりづらい」(杉本氏)。そこで、VRアプリケーションで、臓器やがんなどの立体感を光や影により自然に再現できれば、医師の理解の手助けとなると考えている。

手術中にVR映像を活用している様子(画像提供:HoloEyes Inc.)
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 内視鏡映像を平面的な小さいディスプレーに映し出す場合、内視鏡の先端からの一方向からしか見ることができない。しかし、VRアプリケ―ションにすれば、「自分が見たいように自由に、正面や側面、背面など360度から見ることができる」(同社 代表取締役 CEOの谷口直嗣氏)。医学知識の教育や手技の修練においても多角的に捉えることができることは重要であると説く。

(左)HoloEyes 取締役 CSOの新城健一氏、(中央)HoloEyes 代表取締役 CEOの谷口直嗣氏、(右)HoloEyes 取締役 COOの杉本真樹氏
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 こうした応用などに向けて、HoloEyesが手掛けているのが、患者のCTやMRIなどの画像を使ったVRアプリケーションの作成とデータ共有サービスである。例えば、肝臓や腎臓といった臓器やがんなどの病変のVRアプリケーションを作成できる。CTやMRIなどの画像からの臓器抽出は、現在手作業と機械学習で行っており、「肝臓であれば5~10分くらいでできる」と杉本氏は言う。

 ただし、「まだ医療現場では、必要とされる状況やコンテンツがまだ十分に認知されていない」と杉本氏は話す。例えば、術前シミュレーションに活用するにしても、没入感を求める人もいればそうでない人もいる。「医師のニーズを踏まえながら、患者の利益に還元できるコンテンツを提供していきたい」と同氏は語る。

最先端の治療を身近に

 (3)の医療情報の可視化については、がん治療の先進技術の一つである粒子線治療の施設見学をVRで体験するという事例もある。三井住友海上あいおい生命は、VR映像によるメディポリス国際陽子線治療センター(鹿児島県指宿市)の施設見学を、2017年5月から保険代理店の店舗または訪問販売を通じて保険の契約を検討する人に提供している。

待合室のVR映像キャプションイメージ(画像提供:三井住友海上あいおい生命保険)
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治療室のVR映像キャプションイメージ(画像提供:三井住友海上あいおい生命保険)
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 目的は、「先進医療という選択肢があることを広めるため」と同社 経営企画部 広報グループ 副長の柳田慎二郎氏は話す。同社ではかねて、先進医療や疾患の正しい理解を広めるための情報発信を冊子やWebサイトを通じて行ってきた。新しいツールとしてVRを活用したのは、「その場に行ったかのような一体感や臨場感を味わえるため」と同氏は説明する。

使用する「VRscope」。スマートフォンを挿入してVR映像を見ることができる
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 今回VR映像にしたメディポリス国際陽子線治療センターは、「陽子線治療を実施する施設として規模が大きく環境が整っており、理解を深めるために紹介するのに適している」と同氏は語る。三井住友海上あいおい生命は、今後も医療や介護に関する情報を広く提供するためにVRコンテンツの拡充を図っていく考えだ。

患者の体幹バランスを定量化する

 (4)の介護の領域については、リハビリテーションに活用していこうという試みがある。VRを使った医療機器開発を手掛けるmediVRと大阪大学、国立循環器病研究センターは、歩行訓練の一種である体幹コントロールのプログラム開発を進めている。脳梗塞患者の歩行機能回復や、神経変性疾患患者の歩行機能の維持または低下抑制に使うことを想定する。

 着目したのは、手を遠くに伸ばす体幹コントロールのリハビリテーションである。手を伸ばすことで体を揺さぶり、その刺激に耐えることで体幹を鍛えることができるというもの。患者が手を動かしたときの体幹バランスを定量化するためにVRを活用しようと考えた。

VRを活用したリハビリテーションを行っている様子(画像提供:mediVR)
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 患者は、HMDを装着した状態で付属のコントローラーを手に持つ。そして手を遠くに伸ばすと、手のリーチング(可動域)や体幹が重心からどれだけずれているかを測定することができる。

mediVR 代表取締役社長の原正彦氏
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 これまでのリハビリテーションは「半定量的だった」とmediVR 代表取締役社長の原正彦氏は話す。例えば、100m歩行に何秒かかったということは数値化できたが、腕の可動域やそのときの体幹バランスを数値化することはできていなかった。「患者の状態を定量的に評価することができれば一定の水準のリハビリテーションを提供できるだろう」と同氏は見る。

 患者の可動域の限界値が分かれば、「どれだけの負荷を加えれば良いかを計算することができる」と原氏は話す。30cm手を伸ばす運動をさせたい場合は、VR空間上で患者から30cm離れた位置に指標を映し出すことで正確な指示も行うことができる。これまでは理学療法士の判断に委ねられていた部分が解消されるわけだ。

 患者が歩行する際の転倒リスクを低減させることも、VR活用の狙いの一つである。転倒せずに一人で歩くためには、「歩くという動作を行いながら頭の中で別のことも考えられなくてはいけない」と原氏は説明する。例えば、歩きながら話すことができないため、話しかけられると足が止まってしまうという人は、「歩く」と「話す」の2つのタスクを同時に行うことができない。こうした人は「転倒リスクが高い」と原氏は指摘する。歩行訓練にVRを使えば、空間上の指標を認識して触れるという認知的刺激も与えることができ、「歩く」と「認知する」の2つのタスクを処理するためのリハビリテーションが行えるというわけだ。

 現在は、開発したプログラムを健常者に対して実施している。「1年以内にはリハビリテーションの現場で患者に使えれば」と原氏は期待する。

 リハビリテーションにVRを活用する事例はほかにもある。アイデアクラウドと人工関節センター病院は、人工関節手術を受けた患者を対象にしたリハビリテーションプログラムを開発している。VR空間上に現れるボールに触れるというプログラムで、2017年1月から効果の測定や臨床データの取得を行っている(関連記事2)。

VR空間上で高齢者を運ぶ

 (4)の介護については、介護する側のシミュレーションをVR映像で行うプログラムもある。スリーディーと豊橋技術科学大学は、ベッドに横になっている要介護者を車いすに移乗させるシミュレーションができる介護訓練VRの開発を進めている。介護従事者や学生のトレーニングや、国外に日本の介護ノウハウを伝える際に使用することを想定している。

 利用者がHMDを装着すると、ベッドに横になる高齢者(要介護者)が現れる。利用者の動きは米Microsoft社のジェスチャー入力デバイス「Kinect」センサーを用いて追従し、リアルタイムの腕の動きをVR空間に映し出す。

介護訓練VRを体験している様子

 VR空間上では、高齢者の体と利用者の腕を接触させることができる。現在開発しているプログラムは実際の介護現場で行われている移乗方法とは異なるが、「高齢者を両腕と胸元の3点で支えて移乗させるもの」と同社 営業部 リーダーの青木慶氏は説明する。

介護訓練VRの映像イメージ(画像提供:スリーディー)
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Kinectで利用者の動きを検知し、VR映像上には利用者の腕が映し出される(画像提供:スリーディー)
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 しかし、VR空間上に再現した高齢者は利用者との接触は反映するものの、重さを感じることができないため、風船のように浮いてしまい、利用者も抱えているという実感が得られにくいという。そこで今後は、「高齢者の体重を感じられるようにしたい」と青木氏は意気込む。

(左)スリーディー 営業部 リーダーの大川清志氏と(右)スリーディー 営業部 リーダーの青木慶氏
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 そのために開発を進めているのが、力覚を再現するハプティックデバイスである。具体的には、両肘にモーターを搭載したデバイスを装着した状態で介護訓練VRを行い、利用者の体勢と高齢者の設定体重から、腕にどれだけの力がかかるかを計算する。その力分布に応じてモーターで利用者の腕を引っ張れば、VR映像と合わさってあたかも高齢者の重さが腕にかかっているように錯覚できるというわけだ。今後は、ハプティックデバイスの開発に加えて、実際の介護現場を再現したシナリオ作りを進めていくという。

空も飛べる?

 VR映像とトレーニングマシンを組み合わせて、(5)の新しいフィットネスの形を模索しようという動きもある。

イカロス プロの空を飛ぶ映像イメージ(動画提供:ICAROS社)

トレーニングマシン「イカロス プロ」利用イメージ(画像提供:ICAROS社)
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 ドイツのICAROS社は、VRを活用したトレーニングマシン「イカロス プロ」を2016年4月に発売。HMDを装着した状態で体幹バランスを鍛えるプランクというトレーニングを行う。ハンドルの位置にコントローラーを設置し、利用者の全身の動きでVRの景観を操作することができる。

 室内にいながら、空を飛んだり海底に潜ったりしているかのような状況を体験し、運動も行うことができる。日本では、フィットネスクラブやインターネットカフェ、VR施設などに導入されている。

イカロス プロの海に潜る映像イメージ(動画提供:ICAROS社)