ノーベル賞受賞者を輩出した理化学研究所

 1917年に実業家の渋沢栄一らの尽力により財団法人理化学研究所(理研)が設立された。モデルは、ドイツのカイザー・ウイルヘルム研究所(のちのマックス・プランク研究所)だった。長岡は理研の物理部長に就いた。

理化学研究所開設当初の1号館(左)と3号館(右)。3号館(物理棟)は、長岡半太郎による設計。2階建てで、「便所もない」と揶揄されたという。前の空き地に、2号館が建てられた。この写真は、2号館が建つ前に撮影されたと推測される。(出所:仁科記念財団)
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理化学研究所の建物群は、太平洋戦争で焼失しなかった。米軍は意図的にここだけ爆撃をしなかったと推測される。1990年ごろに撮影された1号館正面玄関と2号館(右)。(出所:科研製薬)
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理化学研究所1号館の「1」というプレートは現在、科研製薬の「仁科倶楽部」の中に掲げられている。(出所:科研製薬)
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理化学研究所の正門。不忍通りに面していた。戦後は、理化学研究所を母体とする科研化学、ついで科研製薬がこのキャンパスを使用した。(出所:科研製薬)
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 しかし元文部大臣だった初代所長が就任5カ月で急逝し、第2代所長も健康上の理由で間もなく辞任した。第3代所長の人事を誤れば理研の致命傷となる。長老格だった長岡は強い危機感を抱いて所長人事を進めた。長岡が最初に指名したのは、かつての上司で東京帝国大学総長や九州帝国大学総長を歴任した山川健次郎だった。しかし、既に高齢だった上、学問的業績がないことを理由に固辞される。そこで白羽の矢が立ったのが、弱冠42歳の大河内正敏(1878~1952年)である。当時、理研研究員、貴族院議員で子爵、東京帝国大学教授の俊秀だった。

 大河内は次々と改革を断行した。主任研究員に自由を与える研究室制度を導入して理研を国際的な研究機関に育成。その一方で、研究成果の事業化を進めて多数の会社を興し、理研グループ(理研産業団)を新興財閥の一角を占めるまでに成長させた。若手人材の発掘、育成にも尽力し、寺田寅彦(1878~1935年)、仁科芳雄(1890~1951年)、朝永振一郎(1906~1979年)、湯川秀樹(1907~1981年)ら優れた科学者を多数輩出し、理研の黄金期をつくり上げた。

 理研は優れた科学的業績とともにベンチャー企業を続々と生み出す両刀遣いの研究所だった。それを実現したのは大河内の行政手腕であり、その能力を見抜いた長岡の慧眼だったといえるだろう。

 長岡の見識の広さを示すエピソードが、ノーベル物理学賞の推薦である。長岡は戦前、ノーベル賞候補者を7回推薦し、その全員が受賞した。1940年、湯川秀樹の中間子論を挙げ、その推薦状の中で「今回、初めて同国人を推薦できる。しかも、それは十分に自信を持って」と述べた。湯川は1949年、日本人として初のノーベル物理学賞に輝き、敗戦に打ちひしがれた日本人に勇気を与えた。数多くの物理学者を育てて世界の舞台に押し上げた長岡は、「日本の物理学の父」といえる。

大戦で原爆製造はできない

 終戦前年の1944年12月、長岡は雑誌『軍事と技術』に「原子核分裂を兵器に利用する批判」と題する論文を発表した。これは日本において原爆を開発することが不可能であることを主張した論文である。

 戦時中、日本には2つの原爆開発プロジェクトがあった。理化学研究所の「二号研究」と、京都帝国大学の「F研究」である。当時の軍部には安易な原爆待望論があり、軍部の期待にあらがえなかった理研では仁科芳雄を中心に原爆開発が行なわれていた。当時の日本の科学は既に世界水準だったのである。

 しかし、原爆の開発は少なくとも日本の技術力では不可能だと長岡は考えた。1943年3月の海軍「核物理応用研究委員会」に参加した長岡は「米国でさえこの大戦で原爆を造ることはできない」と結論を下している。

 その論理とは、いかなるものか。天然ウランは、ウラン238を99.28%、ウラン235を0.71%含んでいる。ウラン235は遅い中性子でも核分裂を起こすが、ウラン238は速い中性子でなければ核分裂しない。原爆製造には遠心分離器でウラン235だけを取り出し、80%以上に濃縮しなければならないが、それを短期間でやるのは不可能である。一方のウラン238を核分裂させるには、速い中性子を生み出す加速器を製造する必要がある。実験室ならば製造は可能でも、戦場で動く加速器を造るのは難しい。原爆製造は「空中の楼閣」である――。

 ナチスドイツから原爆製造チームの責任者を任命されたヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg、1901~1976年)と同様の考えだった。原爆投下直後の広島で、技術院総裁の多田礼吉陸軍中将(東京帝国大学理学部物理学科出身)から「これは原爆か」と問われたときに、長岡は「原爆ではない」と答えている。