残っていた戦前の理研23号館

 仁科と朝永にとって最も重要な創造の拠点が理研だったことは、論を俟たない。いや、彼らだけではない。優れた科学者を多数輩出し、数々の科学的業績を打ち立てた戦前の理研には、創発のプロセスに関わるさまざまな情報がその場所にデポジットされていたはずである。

 朝永は「科学と科学者」と題した講演の中で、科学を進展させる本質は損得勘定ではなく、人間に内在する「知的好奇心を満足させること」であり、そのやむにやまれぬ要求は「人間の自由な精神活動にその根をもつ」と述べている。朝永が「科学者の自由な楽園」と呼んだ理研とは、どんな場所だったのか。それは、どんな空気に包まれた場所だったのだろうか。

 戦後1947年に理研コンツェルンは、GHQによって解体されてリコーなどのさまざまな独立会社となり、その翌年に財団法人理研は、株式会社科学研究所に衣替えした。さらに、科学研究所の生産部門は1952年に現在の科研製薬へと分離し、研究部門は1958年に特殊法人になった。そしてこの新生理研は、朝永がノーベル物理学賞を受賞した翌年の1966年から1967年にかけて、東京の本駒込から埼玉県和光市に移転した。なお、本駒込にあった当時の土地・建物は科研製薬が引き継いでいる。また、STAP細胞事件で世間の耳目を集めた理研は、2002年にできた神戸事業所である。

 私は、戦前の理研は東京大空襲で灰燼に帰したものとばかり思っていた。だから日本の科学研究のルーツに他ならない理研の建物群には、決してお目にかかれないものと思い込んでいた。

 それでもコペンハーゲンから帰ってきた仁科やくりこみ理論を発見したばかりの朝永が散策し研究をし、さらには生活した場所を自分の足で歩き、その土地にデポジットした彼らの思い出を追体験したかった。

 そこで、私は何度も東京の文京区本駒込を訪れ、その街角を散策した。そして驚くべきことを発見した。

東京都文京区本駒込にある仁科記念財団(アイソトープ協会)。戦前の理研23号館をそのまま使用している。玄関の上の23の数字が往時をしのばせる。
東京都文京区本駒込にある仁科記念財団(アイソトープ協会)。戦前の理研23号館をそのまま使用している。玄関の上の23の数字が往時をしのばせる。
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戦前の理研の跡地に建てられた文京グリーンコート。巨木は、戦前の理研時代のもの。理研を記念するプレートが2カ所掲げられている。
戦前の理研の跡地に建てられた文京グリーンコート。巨木は、戦前の理研時代のもの。理研を記念するプレートが2カ所掲げられている。
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 なんと理研の23号館だけは、今でも「仁科記念財団」(アイソトープ協会)として残っているのである。そして理研の跡地に建つ文京グリーンコートという高層ビルには、この地にかつて理研があったことを示すプレートが掲げられている。

 この高層ビルの中に、理研の生産部門をルーツに持つ科研製薬が今でもある。もしかしたら、と私は思った。「もしかしたら、戦前の理研の建物の遺構や写真が社内に残されているのではないか」と。そこで、思い切って科研製薬の広報に連絡を取ってみた。そしてさらに驚くべきことが分かった。

 戦後40年以上にわたって、科研製薬は、戦前の理研の建物をそのまま使っており、1991年に建物を取り壊す前に撮られた航空写真によれば、1、2、3号館など戦前の理研の主要な建物群はほとんど残っていたということである。ということは、東京大空襲に遭わなかったということだろうか。現在の理研が発行する『理研精神八十八年』によれば、「1945年(昭和20年)4月13、14の両日の大空襲によって、駒込の建物の3分の2、設備の大半を失う事態になった」とある。しかし少なくとも心臓部は温存されているのだ。米軍は意図的に理研の心臓部を爆撃の目標から外したのだろうか。

 たいへん親切な科研製薬の広報の方から、これらの航空写真の転載のお許しをいただいた。仁科記念財団の方も、戦前の航空写真を送ってくださった。