物理学との不思議な縁

 本編の最初に述べたように、仁科を生涯、師として仰いだのが朝永振一郎だった。東京生まれの朝永は幼少時、西田幾多郎(1870~1945年)の同志で哲学者だった父・朝永三十郎(1871~1951年)の京都帝国大学教授就任に伴って京都に移り住む。子どもの頃から病弱で、科学的観察や実験に親しむ理科好きの少年として育った。

 1929年に京都帝大理学部物理学科を卒業。ちなみに同物理学科の3年先輩に西田幾多郎の次男、外彦がいた。西田外彦もまた父親の助言を得ながら理論物理学を学んでおり、当時の京都では、哲学と物理学とは互いに新しい次元をめざして切磋琢磨する関係にあったことが分かる。

 卒業後、朝永は京大の無給副手(助手)になった。そして前述したハイゼンベルクとディラックの東京講演、仁科の京大講義が朝永の運命を大きく前に押し出す。1932年、朝永は仁科に誘われて理研の研究員に着任したのである。この年はイギリスのジェームズ・チャドウィック(James Chadwick、1891~1974年)による中性子の発見をはじめ、重水素の分離成功、陽電子の発見など物理学史に残る重要事が相次いだ「驚異の年」である。

 朝永は時代に恵まれるとともに、仁科という師、理研という場所に恵まれた。自伝『科学者の自由な楽園』(岩波文庫)でのびのびと描いたように、理研本来の自由な研究風土に加えて、仁科がコペンハーゲンから持ち帰った闊達な空気の中で、朝永は研究上の自信と体調を回復する。ちなみに仁科の師である長岡半太郎と、京都学派の哲学者として名を成した朝永の父三十郎は同じ長崎県大村市出身で、幼少期の実家が隣同士という旧知の間柄だった。朝永は生まれながらにして物理学と不思議な縁で結ばれていた。

 終生の友人でありライバルでもあった湯川秀樹とは共通点が多く、何かにつけて比較された。どちらも東京生まれで、父親の京都帝国大学教授就任を機に京都に転居。中学校、高等学校、帝国大学とも同期の卒業、就職も同期で、京大の無給副手時代は机も同じ部屋にあった。

 ところが、大学卒業後、早々と自らの道を定めて才能を発揮する湯川に、朝永は焦りと劣等感を募らせる。朝永はのちに「湯川理論ができたときは、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかった」と述懐している。

 朝永は1937年から2年余り、ドイツのライプツィヒに留学し、ハイゼンベルクの下で最先端の原子核理論に挑んだ。ハイゼンベルクやパウリが構築した「場の量子論」は当時、相対性理論との関係が必ずしも明らかではないという困難を有していた。朝永は空間の各点はそれぞれ固有の時間を持つと考える「超多時間理論」を1943年に提唱し、この困難を解決する。

 また電子・電磁場系に対する場の理論たる「量子電磁力学」は、物理量を計算するとすべて無限大になるという自己矛盾を含んでいた。これでは計算結果を実験と比べることができない。戦後、朝永は超多時間理論の形式で「場の理論」の計算をやり直した結果、無限大の各項は電子の質量か電荷への補正と考えられることが分かった。これらの無限大を電子の質量や電荷に繰り込めば、すべての物理量は有限となり、理論値と実験値が一致する。この「くりこみ理論」など量子電磁力学の発展に寄与した功績により、朝永は1965年にジュリアン・シュウィンガー(Julian Schwinger、1918~1994年)、リチャード・ファインマン(Richard Feynman、1918~1988年)と共同でノーベル物理学賞を受賞した。日本では湯川秀樹に次ぐ2人目の受賞だった。

未完の名著を遺して

 朝永について特筆すべきは教育者としても優れた能力を発揮したことである。1941年から東京文理科大学(のちの東京教育大学、現・筑波大学)教授を務め、戦後は文理大の焼け残った建物で素粒子論の研究会を開き、焦土の中で研究活動を再開した。所属する大学に関わりなくメンバーを受け入れたこの研究会からは、南部陽一郎(1921~2015年)、西島和彦(1926~2009年)、木庭二郎(1915~1973年)などのちに日本を代表する物理学者が生まれることになる。

 朝永の論文は極めて明快で数式の展開にも飛躍がない。大学に入ってすぐ、私たちはまず朝永の論文を熟読したものだ。それは、19歳の少年に対してもきちんと理解できるように書かれていて、入門したての私たちは導かれるようにして彼の論文を読んだ。

 講義においても1つの数式を板書すると、次の行は必ず学生全員が理解できる書き方をしたという。その点、思考が次々に飛躍して学生たちにはちんぷんかんぷんだった湯川の講義とは対照的だった。

 1949年、プリンストン高等研究所に招聘されて渡米。同じ年に出版された『量子力学』(I・II、みすず書房)は量子力学の教科書として長く読み継がれ、英訳もされて世界で高く評価されている。私自身、量子力学との出会いは、この朝永の『量子力学』だった。高校時代には必ずカバンの中に忍ばせ、電車の中で擦りきれるほど読んだ。歴史の流れとともに理論がその考え方も含めて書いてあるので、絞り出すように量子力学が生まれたその過程がよく分かる唯一無二の名著である。

 朝永がアメリカ から帰国した翌年、日本の学術体制の立て直しのために奔走していた仁科がこの世を去る。朝永は恩師の遺志を継ぐかたちで科学行政の分野に関わっていった。日本の原子力開発に向けた環境を整えるために「原子力平和利用三原則」の策定に尽力し、日本学術会議会長として日本全体の学術振興に取り組んだ。東京教育大の学長を務めた時代(1956~1961年)は民主的運営によって学生から絶大な信頼を集め、「朝永時代」と呼ばれる黄金時代を築いた。

 1957年、科学者が核兵器と戦争の廃絶を訴えてカナダで開いた第1回「パグウオッシュ会議」に湯川秀樹らと共に参加し、平和運動にも積極的に発言した。一般向けの啓蒙書やエッセイを通して、物理学の意義や科学と科学者の役割を訴え続け、晩年は食道癌に侵されながらも、物理学の歩みを総覧する『物理学とは何だろうか』の執筆に精魂を傾けた。彼がこの本で述べた「物理学の定義」は、私にとっての揺るぎない軸になっている。曰く物理学とは「われわれをとりかこむ自然界に生起するもろもろの現象――ただし主として無生物にかんするもの――の奥に存在する法則を、観察事実に拠 りどころを求めつつ追求すること 」と。彼はその定義に基づいて、物理学さらには科学がヨハネス・ケプラーから生まれ、アイザック・ニュートンでいかにして花開いたかを克明に記している。病室でも口述筆記を続けたものの、量子力学の誕生の物語に至ることなく、1979年に73歳で逝去。その上・下巻(岩波新書)は未完の名著として世に残された。