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2016/10/07 05:00
今井 拓司

 どうってことのない怪我のはずでした。一週間ほどして痛み出した時には、悪い予感が当たったのかと焦りました。ひょっとして体内に珊瑚でも生えてきたのではないか。近所の海でシュノーケリング中に、右手を岩にぶつけてできた傷でした。手の甲にめり込んだ岩礁のかけらに、不吉な想像が頭をよぎったのです。

 最初に訪れた診療所の診断は「骨を痛めたのかもしれない」。本当にそうでしょうか。心配になって聞き返しました。「体内におかしな細菌が入ったりしたのではないですか」。言下に否定されたその根拠は、「だとしたら菌が全身に回って、必ず発熱しているはずだ」と。確かに体温は平熱で、だるいといった症状もありません。

 不安が再燃したのは、レントゲンを撮ってもらいに病院を訪れた後でした。骨には全く異常がないというのです。取って返した診療所では、「腱を痛めたのではないか」との判断。あてがってもらった固定用の金属板とともに、薬指は包帯でぐるぐる巻きになりました。

 それでも疑惑を拭い去れなかったのは、何週間たっても痛みが消えなかったからです。再びレントゲンを撮っても、やはり異常はありません。いつまでも青黒く腫れた薬指の付け根は、自分の体でなくなったような不気味さ。「もう年だから」と笑い飛ばしながらも、気分は一向に晴れませんでした。

 名医といわれる整形外科医を訪ねたのは、2カ月近く経ってからでした。安心感が違うのは、予約制のおかげか自分の後を待つ患者の姿も見えず、ゆったりした時間が流れていたせいでしょうか。次々に繰り出される知識の豊富さにも舌を巻きましたが、何より驚いたのは、これまで見たことのない装置です。

 ジェルを塗られた手の甲に押し付けられたそれは、どうやら超音波で体の内部を透かし見る機械。画面に浮かんだ白黒の画像に骨や腱を見るには、しばし時間が必要だったものの、何とか慣れた目にもハッキリ分かったのは、薬指の根元の腱が薄くなっていたことでした。どうやらそこが切れかかっていたらしく、治す手段は固定するくらいしかないのだと。再びテーピングで指を固定され、瀟洒な建物を後にしました。

 つまり名医の診断は、診療所が下したものと大差ありませんでした。治りが遅かった理由は、もともと治癒に時間がかかる傷だった上、仕事に邪魔だと早々と包帯を取り去った自分のせいもあったようです。結局、名医の腕を持ってしても回復は一切早まらなかったわけなのです。

 それでも、決して安くはない代金の元は十分取れた気分です。長い間のモヤモヤが、綺麗さっぱり消えたからです。詰まるところその理由は、隠れた患部を目の当たりにして自分が納得したからでしょう。もちろん、淀みなく流れる説明に透けて見える知識の深さが、安心感をもたらしたのも確かです。

 そこでハタと気がつきました。これらが名医に必要な条件だとすれば、多くの医師は次第に機械に置き換わってしまうのではないか。センサー技術の発達が研ぎ澄ます機械の五感は、まだ見ぬ人の深部や細部をつまびらかにしていくでしょうし、「IBM Watson」の例を挙げるまでもなく、機械の知識量は人を遥かに凌駕しています。今回はお世話になりませんでしたが、機械の手術の腕前が人をも凌いでしまうのは、時間の問題ではないでしょうか。

 一連の経験から学んだのは、それだけでは足りないということです。どんなに機械が進歩しても、診断装置を優しく押し当ててくれる、手のぬくもりを置き換えられるとは思えません。柔らかな声音に説得力があるのは、落ち着いた息づかいを伴うからでしょう。医療行為と患者の間を取り持つインターフェースとして、生身の人間に変わる存在はないのです。もちろん今回のように、名医が女性の場合に限った話ではありません。

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