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スポーツ、世界への突破力

創業12年で国際サッカー大会の公式球に、国内VBの挑戦

並み居る大手抑えて東アジアカップで採用、イミオ 倉林啓士郎氏(前編)

2016/11/22 00:00

上野 直彦

「リアルなフィールドで勝負したい!」の思いで在学中に起業

―― 面白いつながりですね! 学業より刺激的だったのでは。

倉林 「とにかく日々面白かったですね。川崎さん(DeNA 取締役CTO)と、最初は3人だけの事業部で、これが大成功したんです。そこで事業立ち上げという楽しさ・やりがいを経験できました。ただ、僕としてはずっとサッカーをやってきたということもあり、別の好奇心が生まれ、リアルなフィールドで勝負したいという思いがありました。自分の会社を立ち上げ、付加価値のある「ものづくり」をしたいということです。それで大学4年生のときにイミオを創業しました。

―― 社名の意味は。

倉林 付加価値の高い意味のある商品を取り扱いたい、社会に意味のある事業をしたいという気持ちで「イミオ(意味を)」という社名にしました。

(写真:福田 俊介)

 実は最初は(当時まだ珍しかった)オーガニックコスメを取り扱いたいと計画して、ブルガリアなどの東欧に買付けに行ったんですが、薬事法のような基本知識を知らなかったので成分検査で数百万円のコストが掛かることが判明するなど壁にぶつかり諦めかけていました。

 そんな時、たまたまサッカーボールをパキスタンで作っているという新聞記事を読んだんです。現地の子どもが過酷な労働環境と低賃金で働かされていて、児童労働の問題で大手メーカーが叩かれていました。また、そういうことのない”フェアトレード”という公正な価格で現地と貿易できる仕組みがつくられているということが書いてありました。

 ずっとサッカーをやってきて、ものづくりがやりたくて会社を立ち上げ、その記事を読んだ瞬間にパキスタンという国に、ビビッときたんです。それですぐに行動に移しました。

パキスタンで目の当たりにした、過酷な子供たちの環境

―― 最初にパキスタンに行ったときの印象は。

倉林 本当に途上国で、空港に降りたときから危ない感じがしました。日本人は珍しいですから、すぐに人が寄ってきて。12年前は道も全然整備されていませんでしたし、今考えると危険な雰囲気が満載でした。最近はかなり都会になったなと思います。とにかく最初は衝撃的でした…。道端に貧しい人たちがいましたし、そういう人を見てつらい気持ちになりました。

―― 当時23歳ですよね。

倉林 そうです。日本で生まれて育ったのでショックでしたね。そこから記事に出ていたフェアトレードのビジネスづくりに早速取り掛かかりました。

 実はパキスタンでの手縫いサッカーボールの市場は世界シェアの8割ぐらいあったんです。そこでは貧しさから学校にも行けない子どもが働いて作っている。サッカーをやってきた人間としては本当にショックな現実でした。そして「これこそ自分が取り組むべき事業ではないか」という方向性がパーっと見えてきました。子どもが働かなくていいようなボールを作って、サッカーに恩返しをするみたいな。最初は、そんな気持ちでフェアトレードのサッカーボールを作り始めました。

甘い見通し、試行錯誤、空回りの日々

―― 倉林さんの行動で彼らの待遇は良くなったんですか。

倉林 最初は僕らが良い・正しいボールを作って、彼らの暮らしを良くしてあげようと、自分たちの事業を通じて何とかできるだろうという気持ちで始めました。でもスタートしてみると業界も大きく、僕らが作るボールの数は所詮数百個、数千個だったのでハッキリ言って影響はありませんでした。見通しが甘かったですね。

―― メディアでも取り上げられたりしたと思うのですが。

倉林 当初フェアトレードを売りにして、このボールは子供が働いていない環境で作ったボールですということで販売を開始しました。実際、当時、児童労働の問題で叩かれた大手メーカーがパキスタンから撤退したんですよ。ところが、大手が叩かれて撤退してしまうと、逆にその産業自体がなくなってしまった。当時最大だった生産工場が倒産して、仕事がなくなって困るということが起きてしまったんです。子どもは働けないけど、親も働けない。これではさらに貧しくなってしまいます。

 ボール産業にとっては子どもが働くことのデメリットの方が大きすぎるということが分かったので、まずはパキスタンのボール産業が自らの手で労働環境や透明性を保つ仕組みをまずつくっていかなければならない。そして今後は、基本的に自助努力でやっていけるようにしたい。フェアトレードはその一環なんです。

 実際、今も大手ボールメーカーの工場で子供が働いているかといえば、もちろんそうではありません。そうすると、逆に「僕たちの会社はフェアトレードです」とアピールすること自体に違和感が出てきたので、徐々にブランドの方向を転換して品質やデザインのユニークさを掲げるようにしました。