大学は営利事業を営む機関ではない。従って、イノベーションに果たす大学の役割は限定的だ。シュムペーターの原義では、イノベーションは経済を成長させる原動力だからである(本連載第1回参照)。イノベーションに不可欠な「差異の創出」と「市場への媒介」のうち、「市場への媒介」を大学本体が直接担うことは、原則としてない。

 大学は、まず第1に教育機関だ。イノベーションとの関係で言えば、イノベーションを担う人材の養成、これが大学に期待される。連載前回で見たように、企業が中央研究所を設けても、そこで研究に従事する人材がいなければ、研究所は機能しない。ドイツでも米国でも、「研究を通じて教育する」という趣旨の大学改革が先行し、その後に産業界の研究活動が本格化した。

 大学の先生の研究成果が金もうけの種になることが、たまには、ある。すなわち大学が「差異」を創出することはあり得る。大学が創出した「差異」を、営利企業が「市場へ媒介」する。これが典型的かつ古典的「産学連携」である。

 しかし1980年頃から、大学への期待が世界中で変わってくる。産業経済にもっと貢献してほしい──社会はこう言い出したのである。新産業を生み出すのも、雇用を創出するのも、大学であり、大学の仕事に基づくベンチャー企業だ。社会はこう期待し始める。この動きを「大学革命」と表現することもある[西村、2003、p.9]。この大学革命には、背景がいくつかある。

 背景の1つは連載前回で述べた『中央研究所の時代の終焉』[ローセンブルームほか編、1998]だ。「米国における企業の科学研究所にとっての1つの時代の終わりを、我々は目撃している」と同書は述べる。そして新しい時代の形の選択肢のなかでは、「大学において産業と関係の深い研究を拡大するというのが最も魅力的のように思われる」としている[ネルソンほか、1998]。

 資本主義の形の変化も背景の1つである。本連載第2回で紹介した「ポスト産業資本主義」が、少なくとも先進諸地域では主流となっている。そのポスト産業資本主義において利潤の源泉となる「差異」は、つまるところ「知」だ。知の創造なら大学の出番だろう。大学への期待が高まらざるを得ない。

 もう1つ重要な背景がある。シリコンバレーの発展である。シリコンバレーでは早くから、大学の教員や研究者、企業家精神あふれる若者たち、かれらをサポートするエンジェル(個人投資家)やベンチャーキャピタリスト、こういった人たちが地域内に集まり、連携するようになった。大学人の創出した「差異」を、その大学人自らが起業して「市場に媒介」する。これも、この地域では珍しくない。

 他の国や地域はシリコンバレーがうらやましい。「どこどこを我が国のシリコンバレーに」というプロジェクトが世界中にできる。シリコンバレーを自らの地域に創ろうと思えば、それは必然的に、その地域の大学への期待が高まることになる。

 西洋社会の伝統では長いこと、学と産は分断されていた。連載前回でも触れたように、第1次産業革命期の企業家は、誰も大学を出ていない[村上、1994、p.57]。そういう歴史的背景もあり、1980年前後からの「大学革命」は、伝統的大学人の強い抵抗と社会的な摩擦を伴いながら進行した。大きな転換であるだけに、痛みも激しかったようである。そこに至る過程を調べるため、今回もまた歴史を遡る。

中世の大学は都市から都市へ移動する人々のネットワーク・ノード

 1158年、北イタリアのボローニャ法律学校は、神聖ローマ帝国皇帝の特許状を得て、大学と称するようになる[プラット、1983、p.58]。今日につながる意味での「大学」の誕生である。次いで1231年、パリ大学がローマ法王の勅書によって認可される。パリ大学の中核は神学だった。以後、欧州各地に次々と大学が設立される[吉見、2011、p.24]。

 11世紀末から13世紀初頭は十字軍の時代である。十字軍は結果的に、遠隔地交易を盛んにする。都市が潤い、教会も繁栄する[プラット、1983、p.56]。初期の大学を支えたのは、都市と教会である。

 当時の欧州では、広域的な経済の拠点として都市が発達した。商人から放浪の托鉢僧まで、多種多様な移動民が都市に流れ込む。都市から都市へ移動するこれらの人々は、新しい知識を伝え集積するメディアだった。このような移動民たちが結びついたネットワークの結節点(ノード)として、大学は出発する[吉見、2011、pp.25-26]。

 この時代の経済形態は、遠隔地交易を基盤とする商業資本主義(連載第2回参照)が主である。本来の意味でのイノベーションに大学が関係したとは言えない。しかし、大学で交換される情報が経済に貢献することは、大いにあり得ただろう。

 ただし中世の大学は、技術とは無縁だった。もともと古代ギリシャは、知識と技術を分離し、知識を技術の上に置いた[村上、1986、pp.72-83]。この「知識」は後年の「科学」につながる。すなわち西洋社会は伝統的に、科学と技術を区別し、科学を技術の上位に置く[西村、2003、pp.203-223]。

 大学が誕生した中世には、知識(科学)は大学という高等教育機関を中心に、また技術はギルドという閉鎖的な職人組合を中心に、双極分解する[村上、1986、p.86]。科学の研究と教育、言い換えれば知識の創造と伝承、これは大学が担う。しかし技術開発や技術者養成は、大学とは異なる別の機関が行う。これが欧州の伝統となっていく。

 中世の大学の教育内容や教授法は画一的かつ普遍的である。教師も学生も、どこの大学に移っても不自由のないようになっていた。大学を権威づけたのはローマ法王または神聖ローマ皇帝である。どちらも汎ヨーロッパ的存在だ[吉見、2011、pp.50-51]。

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