技術者の力量は、対立事象を折り合わせること

矢野 ポジティブサイコロジーやフローといった心理学に着目して、その分野の研究者に会い始めたのが2006~2007年頃です。それをきっかけにソニアさんやミハイさんと共同実験をやりました。

 とはいえ、研究が本当に企業の業績に結び付くようなところには至らなかったので、しばらく会社には大目に見てもらっていたというのが実情です。でも、リーマンショックのあたりから、「そんなことを、いつまでやっているのか」と風当たりが強くなってきたんです。

前野 「きちんと事業につなげなさい」と。

矢野 そうです。その時期は少し厳しかったですね。でも逆に、とても厳しい目で幸せという研究テーマと、会社における事業性の関係を見つめ直し、結論付けることをやらざるを得なくなりましたので、その点では良かったのでしょう。

前野 でも、そもそも会社の中で「幸せ研究をやらせてください」と提案して、「いいよ」と言われるのは簡単ではない気がします。何か工夫したことはありますか。「工夫」という表現は変かもしれませんけれど。

矢野 渋沢栄一の『論語と算盤』ではありませんが、会社の存在意義は「今の刈り取りという収益を出すこと」と「その先の中期的な収益につながるような新しい分野や概念、幸せをつくること」だと思います。どちらかだけになってしまうと矛盾が生じるので、私自身はそのバランスをうまく取ってきたと考えています。研究は矛盾だらけです。「短期と長期」「ニーズとシーズ」「チームと個人」「具体と抽象」……いろいろな対立事象がありますよね。それらをどのように折り合わせるかが、技術者や研究者の力量だと思います。

前野 どう折り合わせるか、コツはありますか。

矢野 割り切らず、現実を直視することでしょうか。「俺は研究者だから、技術だけやるんだ」「基礎研究所に入ったから、長期的な研究だけをやろう」というように、どうしても考えたくなりますけれど。

前野 両方をきちんと見続けるということですね。

矢野 そうです、見続ける。

前野 でも、それはなかなかできないんですよね。特定の研究領域から、究極の目的である「幸せ」まで、すべてを見続けるには「木を見て森も見る」ための相当な努力が必要です。矢野さんは、それを実践している。

前野 隆司(まえの・たかし)。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント(SDM)研究科教授。1962年山口生まれ。広島育ち。1984年東京工業大学工学部卒業、1986年東京工業大学理工学研究科修士課程修了、同年キヤノン入社、1993年博士(工学)学位取得(東京工業大学)、1995年慶應義塾大学理工学部専任講師、同助教授、同教授を経て、2008年よりSDM研究科教授。2011年4月よりSDM研究科委員長。この間、1990〜1992年カリフォルニア大学バークレー校Visiting Industrial Fellow、2001年ハーバード大学Visiting Professor。著書に『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)、 『無意識の整え方』(ワニブックス)、『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(講談社)、『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)』(講談社現代新書)、『システム×デザイン思考で世界を変える 慶應SDM「イノベーションのつくり方」』(日経BP社)など多数。(写真:加藤 康)

矢野 好きなんでしょうね。楽しいと思います。要は目的や成果のために必要なことならば、あらゆることをやるということです。

前野 結局、近道はない。スマートなことも泥臭いことも全部やると。

矢野 ええ。私は自分で営業もするし、会食にも出かけるし、何でもやりますよ。日立の中で最もお客さんに会っている1人だと思います。

前野 お客さんに会うと、最先端の情報が入ってきますしね。

矢野 抽象論や妄想の話もできますし、メディアの報道と現実が異なることも結構ありますから現実を知るという側面もあります。現実を知っていると地に足が着いた議論ができますね。

前野 なるほど。矢野さんは「社員の幸福度が高いと生産性が3割上がる」というようなパワフルなデータを出していますが、そういうところから生まれているのですね。

矢野 そうです。だから、後から考えると半導体の研究をやめるざるを得なかったことや、リーマンショックで研究への目が厳しくなったことも、うまいタイミングで良い方向につながったと思っています。

(次回に続く)