図13

 その、最も一般的な作業内容を見せてもらった。「洗われる」本紙は、山元春挙の弟子が描いた墨画である。余白部分に数カ所の染みがある。

 まず長さ5尺(150cm)、幅2尺(60cm)、深さ3寸(9cm)ほどのアクリル製の水槽が取り出された。片隅に排水用の穴が一つ開けてある。その中に金属の網を張った枠を重ね入れ、布の面に、表を上にして本紙が置かれた。本紙の全体に湿りを与えてレーヨン紙をかぶせ、薬剤を端から塗りのばしていく。

 たちまち本紙が濃い紫色に染まる。大丈夫なのか。いささか不安になってくるが、北岡の動きに迷いはない。汚れの部分を中心にして、さらに薬剤を重ね塗りする。塗り終えたら、木枠の片方を水槽の縁に掛けて斜めにし、表面にシャワー水をかけて洗い流す。さらに裏面にもシャワー水をかけ、吸い取り紙を載せて刷毛で撫で付け、水気を取る。

 まさに「洗い」である。心配した薬剤の色はすっかり落とされ、薬品によるダメージも見られない。

「洗い」の後、染みはきれいに除去されていた
「洗い」の後、染みはきれいに除去されていた

 次に違う薬剤の透明な液を全面に塗布し、再びシャワー水で洗い流す。先ほどと同様に、吸い取り紙をのせて水気を吸い取らせる。この作業を何度か繰り返す。乾燥の後、本紙の染みはすっきりと落とされていた。

 北岡の店のように書画商との取引が多い表具店では、こうした「洗い」は必須である。ほとんどが改装の依頼で、本紙はある程度の年月を経ている場合が多いからである。あるものは長期間、倉庫などに入れっぱなしになってカビが生じており、あるものは長い間掛けっぱなしにされて、本紙が焼けている。注文された仕事のおよそ半分がこうしたもので、「洗い」が必要なのだという。

図15

 北岡が独立したころに最も悩まされたのが、この「洗い」だった。「何しろ経験不足でしたから。また修業に行って、一からやり直そうかと何度も思った」という。もちろん、薬品を扱うから化学的な知識が必要だが、それ以上にいろいろな事例、いろいろな汚れやダメージを経験することが重要で、その蓄積がないと失敗する確率が高くなる。

 この「洗い」の恐いところは、ヘタをすれば貴重な本紙を台無しにしてしまう危険があることだ。それだけに、極めて慎重を要する作業といえる。

 「夕焼けが曇空になった」「お姫様がお坊様になった」 「弁償しきれなかった表具師がいつの間にか姿をくらました」などなど、まことしやかに噂される「洗い」にまつわる失敗談は、若干の誇張もあるだろうが起こり得ないことではない。明日はわが身なのである。