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 一般社会でも親や教師の威厳がかろうじて保たれていた当時、職人社会における師匠の権限は絶大で、弟子たちの生活は現代の若者には想像できないほど窮屈だったことだろう。まして貴重な書画を預かる表具店、その中でも「京都で一番厳しい店」である。

 現当主で忠三の息子である岡崎昭は、師匠でもあった実父の厳しさをこう評したものだ。「死んだ時にホッとした」と。実の父が亡くなった悲しみや寂しさよりも、父という師匠から解放されたという安堵の気持ちが先に立ったということだろう。「信じられないだろうけれど」と昭は振り返る。

修業の日々の辛抱があったからこそ今があるのだと思う。
修業の日々の辛抱があったからこそ今があるのだと思う。

「大袈裟に言うてるのやろうと思われるでしょ。そやけど、ホンマにそうやったんです」

 名人として知られた忠三だったが、弟子たちの仕事ぶりや態度に少しでも気にくわないことがあると烈火のごとく怒り、刷毛や差しなど、手近にあるものをかまわず弟子めがけて投げつけたという。作業場が修羅場と化すのは日常茶飯のこと。その度に弟子をかばい不始末の収拾を図るのは、兄弟子である昭の役目だったのである。北岡も昭の弟(おとうと)弟子の一人である。

 さらに苦労したことがあった。言葉である。20歳まで三重で育ち、県外で暮らしたこともなかった。初めての京都生活である。耳慣れない京言葉や京都ならではの言い回しに悩まされた。電話に出ても何を言っているのかよく分からない。ようやく分かっても、細かいニュアンスまでつかみ切れない。そんな、要を得ない弟子の取り継ぎが、気短な主人の癇にさわることもあったことだろう。北岡は多くを語らないが、修業にはそんな辛抱の時間が多く含まれていたはずだ。

図9

 しかし、生来の鷹揚な性格が幸いしたのか、逃げ出したくなるほどのこともなく、5年間で一通りの修業を終えた。さらに1年間、御礼奉公として勤めていた年に師匠の岡崎忠三が他界し、33歳の昭が当主となる。すでに現場の中心を担っていた北岡は、師匠の仕事の後始末や取引先との引き継ぎ、挨拶回りなどに忙殺される昭を助けるために、さらに1年とどまることになる。

 結局、岡崎清光堂での修業生活は7年に及んだ。 それは一からスタートした自分に、表具師として仕事をしていくための基盤、職人の骨格を形づくってくれた、かけがえのない歳月だった。独立して30年たった今でも、亡き師匠や現当主である昭、兄弟子たちへの感謝の思いが変わることはない。