図4

 決断は早かった。「辞めよう」。その時に思い浮かんだのが、父の仕事だったという。「一から始められる仕事がしたいと思ったんです」。表具の仕事は自分の腕ひとつ。企業と違って学歴で差がつけられることもない。就職して2年も経たないある日、北岡は会社を辞めて表具師を目指すことを父に告げる。

 その父は、伊賀上野から四日市市に移転して「北岡技芳堂」の看板を掲げ、表具業の傍ら京都の古道具店や画商を相手に書画の売買も手掛けていた。昭和30年代は、戦後の疲弊した時期を経て京都の美術市場も年々活気を取り戻していったころである。書画商としての仕事で京都に出向くことが多かった北岡の父にとって、京都はほかにはない魅力にあふれた場所だった。

図5

 もちろん、京表具の素晴らしさにも目を見張ったことだろう。西陣の高度な織技による素晴らしい裂地(きれじ)、良質な吉野の紙、使い勝手のよさそうな道具、それらを駆使して技を振るう名人たち。

 父は息子を自分の店に置かず、京都で修業させることに決める。「京都で一番厳しい店」という条件を付けて。

 「始めたのが遅かったから、早う一人前にさせたかったんでしょうか」と、北岡は振り返る。ありがたくもあり、時に恐ろしくもある「親ごころ」というものか。

技芳堂に弟子はいない。2人のスタッフがともに働く。
技芳堂に弟子はいない。2人のスタッフがともに働く。

 多くの場合、職人はどんな師匠のもとで修業をするかで、大成の仕方が違ってくる。職人である父親自身が、そのことを誰よりも知っていたのだろう。その「京都で一番厳しい店」とは中京区の岡崎清光堂、京都で一番厳しい師匠とはその初代店主、岡崎忠三だった。

 大正末期から昭和初期にかけて、京都画壇の作家たちの活躍によって掛軸の需要がかつてないほど増大し、京表具は技法や芸術性を発展させた。北岡が岡崎清光堂に入門した昭和40年代は、その「京表具の黄金期」を築いた名人、達人たちが現役で活躍していた時代である。

 何しろ、表具師になるための修業に江戸時代以来の徒弟制度の名残を色濃くとどめていた時代のことである。弟子は師匠の家に住み込み、朝は午前6時には起きて作業場を掃除し、昼間は仕事の合間に主人の家の雑用も手伝った。肝心の仕事についても「教えてもらえる」ことは一切ない。「しばらくは表具師らしい仕事など、一切させてもらえんかった」という。師匠のそばで、その仕事をひたすら見続ける。見て覚える。職人仕事を習得する術を「盗む」というのは、そうしたことに由来するのだろう。師匠の「不親切」が弟子を成長させる、つまりそれが「親切」なのだとも。