「講師の方ありがとうございました、ちょうど1時間が経ちました」と、司会による「はいっ、これまで」のゴングが場内にこだました。満場の騒音もこだまし、腹を抱えている社員もいれば、呆然自失しているものもあり、まずあまり見たことのない光景が目の前には広がっていた。

 ここは撤退あるのみ。一目散に壇上から駆け下りそのまま控え室にも寄らず明治記念館の出口に向かった。かっこいい軍服姿の番兵さんが軽く敬礼をしてくれたような気がしたのだがそのまま左斜め前の権田原の交差点を小走りで渡り、絵画館前を右に見ながらその先にある神宮球場の柱の陰に隠れてしばらくじっとしていた。

 息を整えてからほどなく何事もなかったように帰社して書斎に入って鍵を掛けていたのだが、2時間ほどして「先ほどの会社の営業担当者がわが社まで当社自慢のコーヒー豆を届けに来てくれたがどうしましょう」と秘書が伝えてきた。それにも応えず、小生は居留守を決めていて書斎で息を殺していたのである。

 ほどなくして気持ちも落ち着き、先ほどのスピーチを振り返って冷静に反省する気持ちになってきた。「どうせなら正岡子規のことも話せばよかったな、逆風でも風流に生きなけりゃいけません、俳句でも読んでりゃ不況なんぞはそのうち通り過ぎていっちまうものですよ、なんて・・・」。

 まだ癒えぬ小生の傷ついた心を見抜いてか、秘書がおいしいコーヒーをいれてくれた。やめればいいのに、その彼女をつかまえて、また一席ぶってみる。「いや、オレが整理し切れてないのがいけないのかもしれないけど、本当にこの本にはねぇ、ビジネスの要諦がふんだんに盛り込まれているスゴイ本なんだよ。実に役に立つ。本当に素晴らしい。特にこんな不況下こそ、すべてのビジネスマンはこれを読まなきゃならないんだ、君は知ってるかね、東郷元帥の敵前回頭を。これは俗にT字戦法と呼ばれているんだが、肉を切らして骨を断つという実におそろしい戦術なんだが、そもそもはだねぇ、秋山参謀が・・・」

 そのとき口をあんぐり開けた彼女の顔が、さっきの聴衆と重なって見えた。