彼らを見て育ったひとり息子太郎は、彫塑に親しみながらも、父の仕事を継ぐことを決め、父と同じ仕事場で精度の良い品物を作り出すようになる。ところが、28歳のある日、こつ然と姿を消し自ら死を選んでしまう。丁寧な楷書で書かれた遺書には、自殺の理由めいた事は一切記されていない。しかし、あまりに緻密に研ぎ澄まされた道具の製作を続けていくことに、ある種の行き詰まりを感じていたのかもしれない。

 今に残る彼ら4人の手による品物は、どれも是秀から教わった昔通りの手間のかかる方法で、丁寧に作り上げられている。内容も是秀と比べても大して遜色はない。太郎の作などは、刃物としての内容はむしろ師の作を超えていると指摘する研究家もいる。それでも、是秀直系の技術を持つ鍛冶は一人として残らなかった。近現代の鍛冶では必需品となったスプリングハンマーもグラインダーも入れない是秀の製作方法では、いかに内容が良くても機械を利用する鍛冶たちに対抗していくのは難しかっただろう。

 名工と言えども、時代の流れの中で「作品」ではなく、実用の「刃物道具」を作る鍛冶として残っていくには、自らが変わっていかなければならない。

 石塚は、自身が20代中盤の時、父親に直談判して、型に流し込んで作り上げられたマリエーブル(可鍛鋳鉄)の指輪(しりん)を使った羅紗切り鋏(らしゃきりばさみ)を作ることを了承してもらった。

「親父が交通事故に遭って手が動かなくなって、自分がやるしかなくなりました。でもその時分から総火造りでは限界が来ていたんです。数的に、他と対抗できないんです」

へらがけに使う道具は、自作のもの。もう数十年使い続けてきた。
へらがけに使う道具は、自作のもの。もう数十年使い続けてきた。

 すでにその時点で、東京の鋏鍛冶の組合、東鋏(とうばさみ)会の中ですべてを手作業の火造りだけで製作する「総火造り」で全量の鋏を作っているのは長太郎だけになっていた。名工と称されていた父親は、やはり総火造りの鋏作りにプライドを持っていたし、未練もあった。だから他のように、既製品を使った鋏と並行して、という考えに踏み切ることができなかった。

「でも、このままやっていたら、どうしたってうちは駄目になる」。そう訴える息子の必死さに打たれてか、病床の父親はようやくうなずいた。

 父の承諾を得た石塚は、自動研磨機を入れ、複合材を使うなどして、さらに省ける手間は省いた。そして、自らの総火造りの1/4から1/5の値段で鋏が作れるようにしていった。

「お店の皆さんに、理解していただけたからよかったんですね」

 あの時点でやっておいて良かった、40年以上経った今もなおバックオーダーを抱え続ける石塚はそう言う。

「若い頃は朝8時に工場に入って、夜、ご飯を食べて、また工場へ行って、夜10時頃までやっていました」

 三代目を継いだ後も石塚は忙しい日々を過ごしてきた。

「そうですね、45歳から50歳頃が一番肉体的には良く動けましたね。でも製品そのものは、今作っているものが一番いいと思っています。若い頃は、製品そのものが見えていないんです」