それは、久しぶりに来た職人が「お前まだやっているのか」と驚くほど、厳しい修業だった。長い時間を経て、山崎ひとりで商品を作り出すようにもなり「そろそろ代を譲ったらどうだ」と周囲に言われても、父は首を頑として縦に振らなかった。やっと山崎が三代目市弘を襲名したときには、入門してから30年以上の年月が経っていた。父がある客からわざと取ってきた難しい仕事をやらされ、その客から「親方のものと変わらない出来の良さ」と評価してもらえたのがきっかけだった。

 襲名した山崎は弟と共に、それまで抑えていたものを一気に放出するかのように、圧倒的な質と存在感を持つ鑿を作り始めた。代を継ぐ前から試していた検品での顕微鏡の利用や、火造りの温度管理のためのコンピュータ導入といった改良をさらに推し進めた結果、二代続けて名工の称号を使い手たちから与えられることになったのだ。彼は装飾性のない実用の道具ばかりを手がけてきた。しかし、その実用道具の分野で、彼の作った品物は、存命中から通常の品の数倍から数十倍という高価で扱われ、今も大工などの職人衆に大切に使われ続けている。

「私も家出はしましたよ。7年目のふいご祭りで、自分がまだ何も作れない事を思い知らされて」

 長太郎(ちょうたろう)の三代目石塚昭一郎は振り返る。仕事を続けていくことに嫌気がさして石塚は家を飛び出し、近所の鰻屋に駆け込む。名店として広く知られるその店の主と石塚の父が親友だったという心やすさがあった。その主は、石塚の話を聞きながら、父が修業時代にどれだけ苦労したかという話をしてくれた。

「話を聞いていて、なんか結局、私も家に戻ってしまったんですね」

 そう笑う石塚の父は、仕事のことで怒鳴りこそしなかったが、山崎の父と同じく、教えるということはほぼしなかったという。そんな父が、7年ずっと下働きばかりさせたということは、彼なりの愛情表現だったのだろう。

「いっちょ前になってからの泣きは見たくない」

 山崎の父親が口癖のように語っていたという言葉を存命中の石塚の父が聞いたら、深くうなずいていたかもしれない。

 明治から昭和にかけて活躍した道具鍛冶最高峰の名工、千代鶴是秀(ちよづるこれひで)は、息子を含め4人弟子を育てたが、いずれも仕事を全うすることはなかった。貞秀(さだひで)は独立するも立ち行かなくなって転業、延秀(のぶひで)は修業途中で師匠のあまりの清貧さに恐れをなした父が連れ戻してしまい断念、秀房(ひでふさ)も独立したがまじめな性格と生活苦が影響したか精神に異常をきたし廃業してしまう。