火造りの段階で、ほぼ完成型にまで形作る。鉄の無駄を出さず、さらに後工程の手間が省ける。
火造りの段階で、ほぼ完成型にまで形作る。鉄の無駄を出さず、さらに後工程の手間が省ける。
火造りの段階で、ほぼ完成型にまで形作る。鉄の無駄を出さず、さらに後工程の手間が省ける。

 指輪の形や厚み、指輪から刃へと続く軸の部分の曲がり具合、彼らが作り上げたディテールが積み重なって日本の羅紗切り鋏の形が完成した。大きく崩せばたちまち改悪になってしまうほどに完成されたその姿を引き継ぐ世代は、贅肉をそぎ落とし洗練させていくほかに腕の振るいようはなかったのかもしれない。

「少なくとも長太郎の鋏の形は、お祖父さんが完成させました。」

 と石塚は評す。先人が重ねた試行錯誤のひとつの結実として、今、石塚が火造りを終えた羅紗切り鋏がある。

 初代長太郎が活躍した明治から昭和にかけては、他の分野でも名工と呼ばれる鍛冶が多く生まれた。中でも不世出の名工と呼ばれ、現在もその組鑿(くみのみ)に数千万円の値が付くという、道具鍛冶の中でも別格の存在が、千代鶴是秀(ちよづるこれひで)だ。

 廃刀令布告の直前に名門刀工の家に生まれた彼は、刀工から大工道具鍛冶に転じた叔父の下で修業し、やがて大工道具の分野で一流の称号を得る。道具としての評価が高まり、価格は通常品の約30倍にまで高騰していった。しかし、その名声とは裏腹に経済的には苦労のし通しだった。あまりに手をかけて作るので、数がこなせないのである。そこで是秀は、文人墨客、芸術家や政治家といった顧客が増えて来たこともあり、次第に大工ではなく彼らに向けた高価な一点ものの刃物を製作の中心に据えるようになっていく。流麗な切り銘が入るそれらは実用に供されることはほとんどなく、鑑賞品として扱われた。

 その是秀もまた「形」に格別の注意を払い続けて来た鍛冶の一人だった。彼が修業時代から亡くなる直前まで作り続けて来た鉋(かんな)や鑿(のみ)といった大工道具は、過去の名工が作り出した「力が伝わりやすい形」を丹念にブラッシュアップしたものである。流麗な銘や装飾が施された芸術的な作品でも、それを取り払ったシルエットは必ず、使いやすい道具とは何かをぎりぎりまで追求した上で獲得された「理」を守っていた。飾りものにしか見えない小刀なども、道具に通暁した人々が研げば、刃物としての性能を見事に備えていることが判然とするのである。是秀は、道具鍛冶としての矜持を生涯持ち続けた名工だった。