とりあえず、役場に飛び込む。けれど当時は、漆掻きについて知る者はほとんどいない。それでも、ようやく1人から「漆掻きをしている方がすぐ近くに住んでいる」という情報を得る。そして、ようやく教えられた家にたどり着いたころには、夕方になっていた。

 まずはその人から分けてもらった一貫目の漆を見様見真似で精製するところから始めたが、それで満足しないのが彼の性分である。1992年には奥久慈に900坪の休耕の畑を借り、漆の植樹を始めた。近隣農家の協力を得て2000年には奥久慈山方に500坪の土地を購入する。漆畑を管理するために家を建て、その場所が今や漆採集と精漆、木工の重要な拠点になっている。

 漆の木の栽培も最初は全く手探りだった。漆の産地として知られる岩手県浄法寺では、種を蒔いて漆の木を増やす。ところが茨城では、良質で収量の多い木の、鉛筆ほどの細い根部分から芽を育てる分根法が使われていた。そんなことも知らない。ただ足繁く茨城に通う。漆畑の下草を刈るのである。土地の人間からすれば、全く奇特な人であった。若者はどんどん東京に出ていくのに、彼はわざわざ東京から山間の村にやって来るのだから。

 植え方も枝の剪定も、今思えばデタラメなものだったと本間は振り返る。とにかく何も知らない。見様見真似で、一つずつ覚えていくしかないのである。分根のノウハウを教わり、枝の落とし方などの育て方を教わった。雑草を刈り、台風などで倒れないよう気を遣い、枝を落とす。こうした作業を10年以上も繰り返さなければ、一人前の木は育てられない。

 そしていよいよ、その樹液を取り出す。「漆掻き」である。10年以上にも及ぶ歳月が木に、漆を「木の血液」として作り出す能力を与える。それを、6月~10月というごく短い期間にすべて引き出すのである。一般的には、その作業に従事するのは「掻き子」と呼ばれる漆掻きを専門とする職人である。茨城では、蒟蒻・常陸牛などの特産品を作る農家が兼業で従事しているケースが多い。


 現在、日本では「殺し掻き」と呼ばれる採取方法が使われる。10年以上も丹精してきた木は、約4~5カ月間の採取期間を過ぎると切り倒されてしまうのだ。もちろん、意味もなく切るわけではない。採取後に放置していても、漆を出し尽くした木は冬を越すと根から枯れてしまうのだという。過去には、養生掻きと言って片面だけ採取し、数年養生してからさらに漆を採取する方法も使われていたらしい。しかし、2度の労力に見合うだけの樹液量がなかなか得られない。そんな事情から、結局は現在の方法に行き着いた。「殺し」といいつつも、伐採によって木の命を絶つわけではない。春になれば、まだ生きている根から新芽が吹き出す。それを、また10年以上かけて育て上げる。その営みが、果てるともなく続く。

 こうして採取される漆は、その採取時期によってまったく性格が違い、それぞれに異なった名称をもつ。使い手には、それぞれに適った使い分けが求められるのである。しかも、それらの漆が採れる時期は年毎に多少変動し、気候と土質によって大きく変わってくる。結局は、職人の感覚だけが頼りとなる。