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 茶どころ宇治に限りない恵みをもたらしてきた清流、宇治川。そこに日本最古とされ、源氏物語にも登場する宇治橋がかかる。その橋を半ば渡り川上を望めば、右手に平等院鳳凰堂の甍、対岸の左手には煙突が見える。

 年に何度か、その煙突は淡い煙を吐く。その下に横たわるのは朝日焼のシンボルともいえる登り窯。4つの焼成室を傾斜面に連ねた大規模な焚き窯である。1975(昭和50)年11月に竣工し、三笠宮妃殿下から「玄窯(げんよう)」と命名を受けた。4年前に他界した先代・豊斎が10年来の研究の末に完成させたものである。先代は、この窯を築く以前に別の4基もの窯を築造していた。31歳で最初の登り窯を作ってから、薪と灯油を併用して焼く窯、続いて日本ではもっとも早い段階で実用化したというLPガス窯、さらに無煙の登り窯を造り、最後に54歳で作り上げたのが「玄窯」だった。

 先代夫人の松林美戸子は著書『カラー朝日焼 土は生きている』(淡交社)の中で、「『玄』とはどこまで続くかわからないほど深く限りないという意味で、それこそ『我が道』であり、果てしない曲折のある道を代々がそれぞれの夢を抱いて歩いていく道、即ち伝統の道だと思います」と記す。

 その傍らで当代は、父親の仕事を同じ「作り手」という視点から眺めていた。

 「父はいくつも窯を作りましたから、どういう窯は熱効率が良いとか、窯のクセとか、ある程度は分かったでしょう。ですから今の窯(玄窯)も自分で煉瓦を積んでみて、やっぱり具合が悪いといって積み直したりしながら、完成後も数年は改造に改造を重ねていました。そして毎回自分の作るものは下に記号を書いてから窯詰めして、焼き上がりがどうかというのでまた釉薬の調合を変えたりしているわけです。私なんかは、同じ釉薬を使っても焚き方によって全然違うというので閉口しているのに、窯まで変えたらワケ分からんようになるんちゃうかと思ってたんですが」

 LPガス窯にも改良を加えた。1980(昭和55)年には若き日の当代が、空気とガスの流量をマイクロプロセッサで制御する仕組みを導入、温度の上昇率、酸素や一酸化炭素の濃度を設定値に合わせて自動調節できるようにしたのである。こうすることで高温焼成中でも酸化と還元の微妙な調整が可能になり、製品の歩留まりは向上した。

 このガス窯によって、ほどほどの作品を安定して作ることは可能になったが、味わい深いものは、やはり薪を焚く登り窯でなければ生まれない。けれど、その窯がうまく制御できなければ、1碗の優秀作を生むために、何十、何百個といった失敗作を作らなければならないことになるだろう。そのような事態を避けるために先代が玄窯の築造にあたって導入したのは、1200~1300℃以上という高温焼成時の温度を測定、記録ができる設備と、特殊レンズによって窯内部の映像記録を可能にする設備だった。府の条例に準拠するために、窯の無煙化にも取り組んだ。薪を燃やせば、もくもくと煙が立ち上る。それを集めてアフターバーナーで燃焼させ、無煙化するのである。