しかし結局,T400には買い手が見つからなかった。溝口氏は,事業部長から「お前は何をやっているんだよ」と,小言をもらった。ちょうど1年後の1979年,日本ではNECがパソコン「PC-8001」を発売,一気にシェアを獲得していった。東芝は事業化するとしても海外だけとして,日本での発売を検討しなかった。溝口氏をはじめ東芝の開発陣はほぞをかんだ。

「いずれラップトップ時代が来る」

 溝口氏は頭を切り替えた。「いつまでもデスクトップの時代は続かない。いずれラップトップの時代が来る」。米国でも,「デスクトップ型は重過ぎる」という調査結果が出ていた。1983年秋,ラップトップ・パソコンの開発を本格的にスタート。世界標準になりつつあった「IBM PC」のアーキテクチャを基にした。IBM PCには合計5枚ものプリント基板が必要だった。東芝は回路を複数のゲートアレイにまとめ,何とかボードを1枚にした。1986年1月,ラップトップ・パソコン「T3100」の試作機が完成する。

 溝口氏は,英国の展示会に出品するために一人で試作機を運んだ。まず立ち寄ったドイツのToshiba of Europe社では,現社長である西田厚聰氏が出迎えてくれた。このときの試作機は,ボードにジャンパ線が所狭しと張り巡らされた「ざる蕎麦」状態だった。HDDには,日本ビクターが開発した当時最小の3.5インチ型を使った。日本ビクターは新規事業として3.5インチHDDを開発したが,商談が成立せず在庫の山を抱えていたという。

 T3100は大ヒットした。東芝のパソコン事業は,海外向けのT3100や国内向けの「J3100」を中心に急速に拡大していった。しかし,溝口氏の頭にはDynaBookがあった注1)。DynaBookの開発は,薄型化への挑戦だった。溝口氏は開発チームが持ってきた試作機を,水を入れたバケツに放り込み,再び取り出した。すると水がこぼれる。「まだまだスペースがある証拠だ」と言って,もっと薄くするように指示した。試作機は何度もバケツに入れられた。そしてようやくたどり着いたのが,厚さ44mmだった。

注1) 1987年,溝口氏は東芝の特許部にDynaBookの商標権を調べさせた。米国にDynabook Technologyという会社の存在を突き止め,商標権を譲ってもらうべく交渉したが,先方が「10億円でどうか」と言ってきたので断念したという。国内では,アスキーが持っていることが判明。当時社長だった西和彦氏を訪ねた。西氏は商標権を持っていたという事実は知らず,「そうですか」と言って,相場の価格で商標権の譲渡に応じてくれた。

 文字通り,DynaBookは現在のノート・パソコンの原型になった。1989年以降,改良に改良が重ねられていった。溝口氏は新製品を出すタイミングで必ず世界初を狙わせた。その結果として,液晶ディスプレイやHDD,メモリ,電池といった,ノート・パソコンを構成する主要部品がどんどん進化していった。まさにDynaBookは,日本に「ノート・パソコン効果」をもたらしたのだ。

多田 和市