人を組織しカラーテレビに駒を

 炊飯器の対策に力を注ぐ一方で、中尾はカラーテレビの開発にも関心を向けていた。テレビについては、戦前浜松高工(現静岡大)から久野古夫(元テレビ事業部次長)を入社させ、研究を命じた時から「必ずテレビの時代が来る」との確信を持っていた。久野は入社以来テレビ開発とともに歩んだいわばテレビ技術の語り部である。

 松下電器におけるテレビの量産は、久野らの手で1952(昭和27)年12月から始まった。一方で、7年後にはカラー放送が控えている。1957(昭和32)年になって中尾は久野を呼び「カラーテレビは中央研究所でやるから、君は当分頭からはずしておいてくれ」と告げる。「カラーも自分が」と考えていた久野には不満だったが、さりとて事業部は白黒テレビの生産で手一杯である。

 そこで中尾は事業部から中野稔(元技術研修所長)を中央研究所に異動させ、彼を中心に10名のプロジェクトチームを発足させた。2年後には研究成果が事業部に引き継がれ、早期に技術体制が立ち上がったのだからこの判断は正解だった(写真2)。中央研究所には日本ビクターに転じた高柳健次郎も時々中尾の部屋を訪ねたようである。その関係でビクターの技術者も常時2~3名がプロジェクトに参加した。

写真2●製品開発研究所における研究開発風景。同研究所は昭和41年(1966年)に中央研究所から分離した(製品開発研究所誌より)
写真2●製品開発研究所における研究開発風景。同研究所は昭和41年
(1966年)に中央研究所から分離した(製品開発研究所誌より)

 中尾は時間があるとポケットから虫眼鏡を取り出し、シャドウマスクのドットを観察してはあれこれ指示を出すこともあった。ある時、各社一様に白色部分がぼやけるという現象に悩まされた。ここで中尾は、担当する研究者の前で思わぬ方法をとり原因を解明していった。シャドウマスクの中心上面に30センチほどの針金を垂直に立て、下からアルコールランプでシャドウマスクを熱する。直ちに針金は大きく傾き始めた。電子ビーム照射で微細なマスクが変形することを、高価な計測装置を使わず実証したのである。

 「熱に強い材料はインバール材(Ni-Fe合金の薄板)である」と判断し、間髪入れず合金メーカーに電話を入れ、入手の可否や競合他社の動きを次々と聞き出していった。さらに中尾は一歩突っ込んで「インバール材は高価だからもっと安くできる方法を考えよう」と流れるように仕事を進めた。現場にとっては、まさに生きたOJTだった。「素直にものを見る」「原理原則に則る」「自分でつくって実験する」という中尾の仕事に打ち込む姿は、多くの優れた技術者と商品を育てていった。

―― 次回へ続く ――