米IBMのAI(人工知能)システム「Watson」が米国のクイズ王に勝利してから8年超。幅広い業界でWatsonの活用が進みつつある。特にIBMが期待を寄せるのが、ヘルスケア分野だ。規制の壁などを乗り越えながら、少しずつ実績を積んでいる。Watsonを将来の収益源と位置付けるIBMにとって、ヘルスケア領域での成功は欠かせない。

 東京大学医科学研究所(東大医科研)の宮野悟ヒトゲノム解析センター長は2013年ごろ、あることに頭を悩ませていた。ゲノム(全遺伝情報)の変異を調べてがん治療に生かす「がんゲノム医療」の普及を阻む壁があったのだ。次世代シークエンサー(DNA解析装置)を活用したゲノム解読のコストは2007年ごろと比べて100分の1程度に下がったにもかかわらずだ。

 がんゲノム医療の流れはこうだ。まず次世代シークエンサーで解読したゲノム情報をスーパーコンピューターで解析し、遺伝子の変異を見つけ出す。そこから医師が膨大な論文などを参考にがんの発生・進展に寄与する変異を絞り込むわけだが、ここに膨大な時間がかかっていた。宮野氏はこの作業にAIが活用できるはずだと考えていた。

米本社から「待った」

 同じ頃、IBMにも同じような問題意識を持つ日本人研究者がいた。今はIBM Watson研究所に勤める小山尚彦氏だ。

 小山氏の経歴は異色だ。1999年に米コーネル大学で物理学の博士号を取得した後、ヒトゲノムプロジェクトに感銘を受けて、2001年から米ペンシルベニア大学医学部でたんぱく質の柔軟性を研究していた。2003年に武田薬品工業、2009年にIBM東京基礎研究所に活躍の場を移していた。

 小山氏は2012年、IBMでゲノム医療関連のプロジェクトを立ち上げた。後に膨大な医学論文や特許などを学習し、がんの原因である可能性が高い遺伝子変異の候補を示す「IBM Watson for Genomics(WfG)」を生み出した1人だ。日本IBMの溝上敏文ワトソンヘルス事業部長は「彼がいなければWfGは存在しなかった」と話す。

日本IBMの溝上敏文ワトソンヘルス事業部長
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 宮野氏と小山氏らの考えが共鳴して生まれたのが、2015年に始まった東大医科研と日本IBMのがんゲノム医療の研究プロジェクトといえる。「彼(小山氏)の問題意識と、宮野先生の構想がうまく結びついた」(溝上氏)。

 とはいえ、プロジェクトとして結実するまでには曲折があった。IBM本社のコンプライアンス担当から「待った」がかかったのだ。というのも、Watsonを医療の現場で活用した場合に、訴訟のリスクがぬぐい切れなかった。そこで、宮野氏らは米本社に実態を何度も説明し、「がんの臨床シークエンス研究を支援する研究」というように研究の枠組みを工夫して乗り切った。

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