那覇市立城西小学校の改築計画は、1983年に始まった。当時はプロポーザルの方式もなかったので、私たちアトリエ・ファイと地元の末吉栄三計画研究室で共同して、「守礼門」に隣接する敷地で、30の普通教室、図書室、視聴覚室、職員室、給食室などの改築(87年竣工)に向けて設計が始まった。

 その後2003年に特別教室棟の改築が行われた。そして、2018年に改築部分として残されていた、屋内運動場(体育館)、幼稚園、児童クラブの工事が行われた。すなわち戦争の後に建てられた校舎の改築計画は、およそ35年かけて完成をみた。これは、ひとえに那覇市教育委員会の執念に支えられた設計であると言える。

首里城公園から城西小学校屋内運動場周りを見る。連なる赤瓦は沖縄の1つの文化であり、集落を形づくる(写真:アトリエ・ファイ建築研究所)
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屋内運動場の屋上から首里城の方向を見る(写真:アトリエ・ファイ建築研究所)
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幼稚園断面図(写真:アトリエ・ファイ建築研究所)
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 改築工事のスタート時は、敷地がやがて歴史公園になるという条件であり、いかなる小学校を建設すべきかを明らかにすべく、公開ミーティングが行われた。

 「将来歴史公園の一角を占める」という条件から、私たちは、素直に、〈集落=村としての小学校〉なるコンセプトを主として景観の上からイメージした。1つには、私(原広司)が沖縄の歴史を全く理解していなかったが、沖縄諸島の文化については集落調査の一端として訪れており、その形態的特徴や赤瓦屋根の建築は、すでに比較的明確に把握していたからである。

 末吉栄三は、すでに新しいタイプの「オープンスクール」の校舎をいくつか実現していた。建築家でもある教育委員会の知念盛信部長は、「沖縄の学校建築は、日陰と通風を旨とするから、おのずとオープンスクールの形式となる」との信念を持っており、私たちは、この地域論的形態論に感動した。

 公開ミーティングは、それぞれ独立して、教育関係者、沖縄の建築家、地元の人々、県土木課といったグループに対して重ねられ、主たる説明は教育委員会と設計者側が行い、趣旨となる考え方の了解を図った。おそらく、ここで行われた公開ミーティングは、その後一般に行われるようになったワークショップの形式の出発点ではないかと推測する。

 「歴史公園の一角」という課題は、坂本万七遺作写真集「沖縄・昭和10年代」の1枚の写真、つまり戦争で那覇市中心部が灰じんと化す以前の写真が、それぞれのミーティングの場で、人々がイメージを共有するうえで、大きな働きを呈してくれた。

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