クオーツ式腕時計の開発に多額の資金を注ぎ込むセイコー電子工業(現セイコーインスツル)。しかし香港勢の参入などにより、クオーツ式腕時計の低価格化に歯止めがかからない。そんな中、世界最大の時計見本市を視察したデザイナーの田中淳は、スイス勢の高級機械式腕時計に魅せられる。そして、「機械式腕時計復活のシナリオ」を胸に秘め、帰国の途に就いた。

田中 淳
(写真:栗原克己)
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 陽春の穏やかな日差しが降り注ぎ、草木が一斉に芽吹き始める。景色はすっかり春。たった1週間離れただけなのに、ここ日本の季節はその何倍もの時が流れたよう。スイスで開催された世界最大の時計見本市「バーゼルフェア1988」の視察を終えた田中淳は柔らかな風を感じつつ、久しぶりのオフィスへと向かった。

 セイコー電子工業(現セイコーインスツル)デザイン室。そこが、彼のオフィスだ。上司に帰国報告を済ませて席に着くなり、仕事が次々と降ってくる。時差ボケも春ののどかな気分も瞬く間に吹き飛んでいく。

「例の新製品の件ですけど、新しいデバイスの量産が本格的に始まるので大胆な価格設定になるそうです。で、そのデザインなんですが…」

「今度の液晶は、明るさが格段に増してます。その特徴を何か新しい機能として生かせませんかねぇ」

 丁寧に対応していくものの、何か満たされない。それは、クオーツ時計に関するものだから。以前から感じていた虚無感は、バーゼルフェアから帰ってきてからより一層強くなった。

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