私にとって最初の五輪は、1996年のアトランタ五輪だ。男子柔道60kg以下級の選手として、初出場で金メダルを獲得した。2000年のシドニー五輪、2004年のアテネ五輪でも金メダルを獲得し、柔道史上初、全競技を通してアジア人初となる3連覇を達成した。

 その後も五輪を目指し、柔道に取り組んだが、相次ぐ怪我に悩まされ、結果を出せなかった。3年前、40歳のときに現役を引退したが、自分の柔道人生に悔いはない。柔道から多くのことを学び、柔道が私を育ててくれた。

女子選手にも敗北 期待されない悔しさがバネに

 祖父が道場を開き、父は天理高校柔道部の元監督、叔父は五輪の金メダリスト。五輪3連覇に加えて、この家庭環境の話をすると、多くの人が私を幼少期から柔道エリートとして活躍した選手なのだろうと考えるようだ。だが現実は違う。中学校に入学して最初の試合は女子選手に負けた。それぐらい弱かった。

 中学時代にはなんとか奈良県ベスト16までは行くことができたが、全国など夢の世界という感じだった。柔道の名門、天理高校へ進学することを決めたときも、柔道部の監督である父からは「無理して柔道しなくていいぞ」と言われた。一足先に同校に進学していた兄に対しては「人の3倍努力する覚悟がないなら柔道部に入るな」と厳しい言葉をかけていたことを知っていた。厳しさは期待の裏返し。私への言葉にがっかりしたが「いつかみていろ」と反骨心に火が付いた。

 反骨心が1つの形になったのは高校3年のときだ。奈良県大会で優勝することができた。初めての全国大会出場。正直、全国でもある程度やれるのではと考えていた。しかし、結果は初戦敗退だった。

恩師の言葉から始まった金メダリストへの飛躍

 大学は全国から猛者が集まる天理大学に進学したが、1年生のときは公式戦の出場選手を決める校内予選で敗退した。つくづく私の柔道人生は挫折だらけだと思う。

 そんな私が、4年生のときには五輪で金メダルを獲得した。わずか数年間でとてつもなく飛躍したわけだ。きっかけは柔道部の恩師である細川 伸二先生の言葉だ。

 大学2年のとき、私の練習を見ていた細川先生に「今の練習を続けていても、試合では勝てない」と言われたのだ。練習のメインは、相手と実戦形式で組み合う乱取り。試合時間は5分だが、乱取りは6分形式。それを12本こなす。先生は「お前は残り本数に合わせてペース配分している」と言うのだ。

 1本の乱取りを試合だと思い、すべてを出し切る。先生からは「限界だと思ったら休んでもいい」とも言われた。正直に言うと、この言葉にはだまされた。先生は休ませる気などみじんもなく、限界だと先生に告げに行くと「なんだ、そんなものか」と言うのだ。

 「そんなものか」と言われて「そうです」とは言えない。ヘトヘトでも乱取りを続けることを選んだ。試合では技術も体力も大切だが、最後は心の戦いになる。限界の乱取りの中でわずかに残った心のエネルギーを振り絞って、出し切る。それが試合終盤の力につながることを学んだ。

 大学4年で日本一になり、アトランタ五輪代表の座を獲得。自分の武器である背負い投げで決勝戦を一本勝ちし、五輪初挑戦で金メダルを獲ることができた。

 続けてシドニー五輪にも出場。五輪は4年に1度の大会。その間にライバルも強くなるし、研究もされる。私は技のバリエーションを広げ、大会前には「全試合違う技で勝つ」と宣言して有言実行。完璧な勝ち方で2連覇を成し遂げた。

2年のブランクを経て3連覇を達成 挑戦し続ける柔道人生を選ぶ

 実はこのとき、引退しようと思っていた。最強のまま格好よくやめる姿に憧れがあったからだ。だがすっぱり引退する勇気もなく、いったん柔道を離れてアメリカに留学した。

 初めて柔道から離れ最初は、プレッシャーのない新しい生活を満喫したが、次第にむなしくなってきた。改めて自分にとっての柔道の大切さを認識し、2年間のブランクを経て現役に復帰した。

 しかし、柔道はそんなに甘いものではなかった。全く勝てないのだ。次第に注目もされなくなり、「野村は終わった」と言われた。「ブランクはあっても俺なら大丈夫」と考えていたうぬぼれ、そして自分はチャンピオンだというプライドから、格好よく勝つことに固執していることに気付いた。

 私はまず心を入れ替えることから取り組み、うぬぼれを捨て、弱さを受け入れた。以前だったら出場もしないような大会に出続け、死に物狂いで柔道に取り組んだ。結果、苦しんだ末に代表をつかみ取ったアテネ五輪では、これまで以上に安定した内容で金メダルを獲得することができた。

 これで3連覇。最高の辞め時だったのだろうが、限界に挑み超えていく喜びを知った私はやめる気がさらさらなくなった。柔道への情熱があるうちは、とことんチャレンジしたい。その先にもっと強い自分がいるのではないか。体がボロボロで動かなくなる40歳まで私は現役を続けた。

 今は現役から退いたが、私から柔道がなくなることはない。国内外で後進の指導にあたっている。次は私が柔道に恩返しする番だ。

 柔道は日本で生まれ、世界に広がった。ビジネスの世界でも同じことをたくさん起こしてほしい。強い個人が強い日本を創る。折れない心があれば、その実現は決して不可能ではないはずだ。

出典:日経コンピュータ 特別レポート版
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