はた目にはスムーズに安井建築設計事務所を継承したかに見える佐野吉彦氏。しかしその過程では、先代の父・正一氏との価値観の違いや事務所運営の路線闘争を乗り越える道程が必要だった。(全3回のうちの第3回)

 半年の米国研修を終えて東京事務所所長になった1989年、建築業界の在り方は大きく変わろうとしていました。日米構造協議が行われて市場開放が叫ばれ、SOM(スキッドモア・オーイングズ・アンド・メリル)をはじめ多くの海外設計事務所が日本に事務所を開きました。

 事業コンペや土地信託など新しい形態のプロジェクトも登場しました。それまで経験がないことでしたが、私も率先して挑戦し、上の世代と一緒に生みの苦しみを味わいました。

帰国後は米国流の合理的な設計事務所運営を目指した。写真は有明パークビル設計の打ち合わせ風景(写真:安井建築設計事務所)
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 バブル経済で数多くのプロジェクトが動いた時期でもあった。多数のプロジェクトをけん引していくなか、佐野氏は背筋が凍るような体験もした。

 信託銀行、大手建設会社と私たちが組み、商業テナントが入る信託事業を進めたときのことです。計画の途中で土地が高騰し、当初の想定より事業費が2億円高くなってしまいました。

 今だったら対応可能な範囲の金額という感覚ですが、当時は初めての経験だったので見当が付きません。銀行から「計画した設計事務所が2億円を負担してくれるんですか」などと言われ、自分が2億円調達しなければいけないと青くなりました。

 椚座(くぬぎざ)正信社長(当時)に相談すると、「いざとなったら私が責任を取る」と言ってくれました。銀行の部長にそう伝えたところ、「分かった。でもあなたに言いたかったのは、そういうことではない。2億円をどうするかを判断するのは経営者であり、設計者の仕事は状況に対応した図面に収めることだ」と諭されました。

 結果的には再び物価も下がり、工事も黒字で終わりました。でもこのときに設計事務所としての覚悟の仕方、立場に応じた責任の取り方は何かを教わったと思っています。

 1997年に42歳で社長に就任した佐野氏の足跡は、順風満帆のように見える。しかし、父である正一氏との間にはさまざまなあつれきがあったという。

 竹中工務店時代に結婚した妻の父(竹中工務店元専務の北村隆夫氏)からは、「油断するな」と言われていました。世の中は予想通りに進まないことも多い。父は厳しい人だから、私の能力がないと判断されるといつ切り捨てられるか分からないという意味だったと捉えています。この言葉は、自分自身の突っかい棒のように感じてきました。

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