山本理顕氏は、事務所を設立した当初から仕事に恵まれていた。周囲の先輩や友人から数々の住宅設計の依頼を受け、その住宅は雑誌で華々しく発表された。もちろん設計の中身が評価された結果だが、そこには山本氏を取り巻く豊かな人間関係があった。(全3回のうちの第2回)

山本理顕氏(写真:川辺 明伸)
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 卒業論文、修士論文、集落調査への参加などによって、山本理顕氏の建築論は展開していった。一方で、駆け出し時代の生計はどのように立てていたのだろうか。

 僕は横浜にある実家から大学に通って親のスネをかじっていましたから、それほどお金は必要ありませんでした。弟に「いいかげん働けよー」などと言われながら、28歳まで原広司研究室の研究生(東京大学生産技術研究所)を続けていました(笑)。

 生田勉先生の事務所(槐建築研究所)にアルバイトに行って、金銭的には細々と収入を得ていたんです。桐生市新川地区再開発計画(1971年)などを手伝いましたが、基本構想の仕事ですから、そこで実務経験を学んだというわけではありません。

 原広司研究室での集落調査は基本的にはプライベート旅行です。当時「SD」の編集長だった平良敬一さんが調査費としてチームに100万円出してくれましたが、それでも当然お金は足りませんでした。足りない分は、研究室のメンバーで地域開発などの仕事を受けて、稼いだんです。例えば、デベロッパーからの宅地造成の依頼とか。土量計算などをさせると、原研の学生はさすがに手際がいいんですよ(笑)。

 原広司研究室の研究生を2年続けた後、1973年には山本理顕設計工場を開設する。

 ちょうどその頃、芸大の同級生の1人が事務所を開いたんです。その友人は、大きなデベロッパーと親しくしていて、マンションなどの仕事をたくさんしていました。その同級生から仕事をもらう形で、僕も事務所を開きました。こばんざめです(笑)。設計というより、企画を立てるような仕事でした。

 そういう経緯ですから、実務経験は全くなかったのですが、周囲に独立して事務所を持っている人がまだいなかったので、先輩や友人たちからの仕事の紹介が僕に集中しました。最初の「三平(みひら)邸」(75年)や「新藤邸」(77年)は、「都市住宅」の座談会で知り合った方からの紹介。「山川山荘」(77年)は家具デザイナーの藤江さんから、「窪田邸」(78年)は芸大同期で藤江和子さんと同じ会社に勤めていた工藤卓さんからの紹介でした。「石井邸(STUDIO STEPS)」(77年)の建て主の石井さんは、芸大での学園紛争の仲間だった人です(笑)。

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