「えー?」

 唇の端を曲げた妻の亜佐美の表情から、檜山は面倒なことになったと思った。

「今日も遅くまで帰れないのー? 真実をお風呂に入れてくれる約束なのに」

「すまん」

 檜山は、右手で拝むそぶりをした。

「急に、お客さんとのデータセンター見学の予定が入っちゃって。その後の懇親会も、営業部がセッティングしてるんだ」

 昨夜、帰りがけに上司の仁科次長に聞いた話だった。プラチナ工業の情報システム部長が、ようやくデータセンターの見学に来てくれることになったのだという。檜山の会社が提携している埼玉県のデータセンターは、今後のアウトソーシング提案の核となる施設なので、営業担当も仁科次長も張り切っている。そういう事情から、プラチナ工業でいくつかのプロジェクトを担当した檜山に、「何とか都合をつけてくれ」と要請してきたのだった。

「今週はずーっと駄目だったでしょ。まあ、仕事なら仕方ないけどね」

 言葉とは裏腹に、亜佐美の表情は全く納得していない。気をつけないと、今後の夫婦の会話で、失点として何度も持ち出されることになるだろう。檜山も、それがわかるくらいの経験を積んでいた。

「本当にごめんな。土日に埋め合わせをするから」

 檜山の言葉も、妻の機嫌を直すには至らなかった。

 亜佐美は、あてつけのようにさっと真実を抱き上げて、檜山の顔を見せる。

「あたしは別にいいんだけどさ。最近、パパはあんまり真実たんにかまってくれないのよね。真実たんは、自分ではまだ文句言えないからカワイチョでちゅよねー」

 抱き上げた娘に代弁させるという、亜佐美得意のパフォーマンスだ。真実はただきょとんとしているだけだが、これをやられると結構こたえる。檜山は、ちょっとむっとしながら、コーヒーを飲み下した。

「ごめん。ともかく、行ってくる」

 なぜ俺が、逃げるように玄関を出なければならないのか、そう思うと、檜山の気分は晴れなかった。

 調整と連絡が必要なのは、家庭内だけではなかった。

 自席につくとすぐ、檜山は固定電話の受話器を取って、外線の番号を押した。

「山科か? 檜山だ。今日も早い出勤だな。すまん。実はちょっと予定が入って…」

 今日が帰社日の山科に、予定の変更を伝える。もともと、部下の山科との面談を予定していたのだ。

 年度初めのグループ長は忙しい。部下全員との「キャリアプラン面談」をこなさなければならないからだ。檜山の会社では、部下の半期業績評価と、次半期の目標設定のための面談を、「キャリアプラン面談」と呼んでいた。

 檜山の場合、部下が7人いるので、面談だけでも結構時間を取られる。山科のように、客先に張りついている部下もいるから、面談の時刻を調整するのは容易ではない。面談が終われば、今度は業績評価シートを書いて、上司と調整し、人事部に提出しなければならない。提出の締め切りは、来週に迫っている。山科を含めて、まだ面談できていない部下が3人。本来なら、急な予定など割り込ませる余地はないのだ。

 檜山は、受話器に向かって頭を下げていた。

「すまん。月曜の進捗会議でそっちに行くから、その時に少し話そう。お前とはいつも会話してるから、そんなに相談することはないよな。うん、そうか。ありがとう。じゃ、そういうことで」

 受話器を置いてため息をついた檜山の鼻先を、小山グループ長が通りかかった。檜山は思わず声をかけていた。

「みんな、一体どうやって回してるんですかね」

 小山グループ長は立ち止まり、驚いた顔を檜山に向ける。

「え、どうやって回してるって、何の話?」

 檜山は両手を広げた。

「面談ですよ、面談。年度替わりのこの時期に、部下の数だけ面談をこなすなんて、そもそも無理じゃないですか? グループ長がこんなに大変だとは思ってませんでしたよ。小山さんなんか、対象者が10人以上でしょ。よくやれますねぇ」

「なんだ、愚痴か?」

 小山グループ長は、笑みを浮かべて檜山を見た。

「まあ、だんだん要領がわかってくるよ。いつも部下を見ていれば、面談なんて最後の仕上げみたいなもんだ。業績評価はあらためて考えなくても頭に入ってるし、2~3日集中してやれば終わる」

 檜山は大げさなため息をついた。

「そんなもんですかねぇ。この先、とてもじゃないけれど、こなせそうな気がしませんけど」

「こなすんじゃないのよ、檜山さん。面談はこなすものじゃない!」

 びっくりするほど強い口調に、檜山は驚いて振り返った。

 胸元に書類を抱えた関谷グループ長が、背後に立っていた。表情が険しい。彼女が時おり部下に見せる怖い顔だ。しかし、檜山には、関谷グループ長が何に腹を立てているのかわからなかった。

「はい?」

 曖昧に応じた檜山に向かって、関谷グループ長はまくし立てた。

「人事研修は受けたんでしょう? 部下の育成は、私たちグループ長の第一の仕事。そうくぎを刺されなかった?」

「は、はい。それはそうだと思いますけど…」

「だったら、『こなす』なんて言い方してはダメ。どうにかして、部下の話を聞く時間を作らないと。そして、一人ひとりに合わせて、キャリアプラン作成を支援するの。親身になってね。これは必須ミッション。手を抜くと後悔するわよ」

 檜山は、相手のけんまくに目をぱちくりさせた。

「はい。確かに…」

「じゃ、私もこれから面談だから。しっかりね」

 関谷グループ長は、現れた時と同じように、唐突に去っていった。

 檜山は、今のやり取りを見守っていた小山グループ長のほうに、向きを変えた。

「どうしたんですかね、関谷さん」

 小山グループ長は、首をかしげた。

「どうしたって…ああ、そうか。君は知らないんだね」

 檜山は問い返した。

「知らないって、一体何の話です?」

 小山グループ長は、一瞬ためらってから話し始めた。

「2年、いや3年前になるかな。うちに富永ってSEがいたのを、覚えてるだろ」

「もちろん。なかなか優秀だって評判でした」

「そう、優秀だった。彼は、関谷さんの部下だった」

 檜山は、首を傾げた。

「確か、転職したんでしたよね。富永君は」

「その通り」

 小山グループ長は、重々しく深くうなずいた。

「メーカー系の会社に転職した。実は、うちでの担当職務に不満を持ってたらしいんだ。でも彼は、関谷グループ長に一言も相談せず、転職支援会社の面接を受けた。転職先が決まってから、初めて打ち明けたんだそうだ」

「そうだったんですか」

 檜山は頭を振った。グループ長にとって、それは痛い。部下との基本的な信頼関係が崩壊していたことになるからだ。

「関谷さんはね」

 小山グループ長は、彼女の後ろ姿を探すように、廊下のほうを見た。

「富永には目をかけていたんだ。でも、忙しすぎて、ろくに話をしていなかった。しっかりした優秀な部下だから、かまわなくても大丈夫だと思ってたんだな。他にもっとフォローしなくちゃいけない部下がいたから。面談もおざなりに済ませてたらしい。彼女は今でも後悔してるよ。きちんと話をしていれば、もっと部下の意欲と能力を生かせたはずなのにって」

「なるほど」

 そうだったのかと檜山は思った。関谷グループ長は自分の経験から、面談を適当に「こなす」というスタンスでは駄目だと知っていた。そしてそのことを、自分に伝えてくれようとしたのだ。彼女の教訓は重い。考えてみれば、部下にとって、今後のキャリアの積み方は1つひとつのプロジェクトより重要だ。ある意味、人生設計にもつながるのだから。

 だが…。

 檜山は迷った。

 山科との面談は、もうキャンセルしてしまった。進捗会議のついでに話そうという檜山の提案を、彼は即座に受け入れてくれたのだ。

「そうですね。あらためてご相談することはありません。檜山さんもお忙しいでしょうし」と。

 例のデータセンター見学が急に入ったんだから仕方がないじゃないかと、自分に言い聞かせる。

 面談のチャンスは、別に今日だけじゃない。来週時間を取ってもいいし、電話で話すこともできる。第一、山科は合意したんだ。何も今さら…。

 ふいに、亜佐美と真実の顔が脳裏に浮かんだ。亜佐美は、真実を抱きながら、不満そうな顔をしている。亜佐美の言葉がよみがえった。

「真実たんは、自分ではまだ文句言えないからカワイチョでちゅよねー」

 わかったよ、と檜山は思った。わかった。わかりました。わかったってば。

 檜山は、ゆっくりと席から立ち上がり、営業部のフロアに向かった。

<挿絵:大久保 友博>
小浜 耕己(おばま こうき)
スミセイ情報システム PMO部 統括マネージャ
住友生命保険で情報システムの開発とプロジェクト管理に従事。スミセイ情報システムに出向後、品質マネジメントシステムを担当し、全社PMOチームの立ち上げに携わる。サラリーマン稼業の傍ら小説家の顔も持つ。高校時代に書き始めて就職後にデビューした。SF、ミステリー、ホラー、ファンタジーなどフィクションの著書多数。日本SF作家クラブ会員、日本文藝家協会会員。
出典:「ストーリーで学ぶプロマネの心得 プロマネ檜山の奮闘録」(日経BP)の「エピソード16 面談」を改題
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