会議室から戻った檜山は、椅子の背からスーツのジャケットを取り上げようとして、ちょっとためらった。

 壁の時計は、午後1時を指している。新規案件を進めている東条物産とのアポは2時半だから、まだ少しだけ余裕がある。外出する前に、メールをチェックしておこう。檜山は、パソコンのキーボードに触れると、手早くパスワードを入力してスクリーンセーバーを終わらせた。

 檜山が、外出前の慌ただしい時間にメールをチェックしようとしたのには理由がある。山科のプロジェクトが気になっていたのだ。

 BP工業の在庫管理システム更改。山科にとっては、プロジェクトマネジャー(PM)としての初陣である。先月、檜山が新しくPMにアサインしたばかりの山科は、営業部門出身で、PMとしてのスキルにはやや不安がある。PMO部の岡崎担当部長も気にしていて、これまでに何度か、檜山に尋ねてきていた。「山科クン、大丈夫かしら。そっちにSOSなんか上げてきてない?」と。

 自分がPMにアサインした手前、その都度、「彼はヒューマンスキルが高いし、大丈夫ですよ。まだSOSは上がってません。何かあれば言ってくるはずです」とは答えておいたのだが。

 事実、山科を現場に送り出す時に、檜山は2つのことを言い含めていた。1つは、何かあったらすぐに相談しろということ。いつでも携帯電話に連絡を入れて構わないから、自分で問題を抱え込もうとするな。もう1つは、定期的に状況を報告しろということだった。正確に、簡潔に、ありのままに、現況を報告して、状況を共有しろ。これが、檜山から山科への指示だった。

 その山科から、まだ今週の報告が入ってこない。本当なら、昨日のうちに着信しているはずだったのに。

 そういえば、岡崎担当部長は気になることを言っていた。

「SOSが上がらないというのも、心配なのよね」

 あれはどういう意味だったのだろう。それはともかく、このところの忙しさにかまけて、山科とあまり話ができていない。確かに、ちょっと心配ではある。

 メールボックスを開いて、檜山はほっと息を吐いた。Shinichi Yamashinaという差出人名が、目に飛び込んできたからだ。

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 よしよし、ちゃんと着信している。檜山は、山科のメールを開くと、机上の小型プリンターに送った。メールの冒頭に、檜山が指示した通り、現況が総括してある。

「全体ステータス:○ 概ね順調」

 ふむふむ。檜山は、一安心してからメールを流し読みした。進捗、課題数、品質、収支、作業概要の今週実績と来週予定、調整・依頼事項。報告すべき事項に漏れはない。

「よかった。大丈夫みたいだ」

 壁の時計に目をやると、そろそろ出かける時刻になっている。檜山は、慌てて立ち上がると、スーツに袖を通した。


 東条物産との打ち合わせは思ったより長引いて、終わったときには午後5時を回っていた。檜山は、駅前の小さな公園から、仁科次長にスマートフォンで結果を報告した。

 報告を聞き終えると、仁科次長は上機嫌な声で言った。

「ところで檜山、今日はこれからどうする? 東条物産との打ち合わせはうまく行ったようだし、たまには直帰したらどうだ。ここんとこ残業が多かったから、奥さんが寂しがってるんじゃないか?」

 檜山は職場結婚だったから、妻の亜佐美のことは、仁科次長もよく知っている。

「そうですね。じゃあ、そうさせてもらいます」

 懸案事項が1つ片付いたので、檜山の声も弾んでいた。彼は電話を切ると、改札を抜けて、プラットホームに立った。

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 こんな時間に帰るのは久しぶりだ。まだ空が明るい。うれしいことに、この駅から檜山の自宅最寄り駅までは私鉄で1本。乗り換えなしで帰れる。ただし、乗降客が少ない分、発着間隔は長めだ。檜山は、列車を待つ乗客の列に並んで、女子大生らしき2人連れの会話に、聞くとはなしに耳を傾けていた。

 大きな革製のショルダーバッグを左肩に掛けた、背の高いほうが、聞いている。

「ねえ、総合経営論のレポートって、もう出した?」

 赤茶色に髪を染めた、肉づきの良い子が間延びした声で答える。

「出したよー、きのう」

「はやっ」

 ショルダーバッグが、驚いた声を出す。

「いつの間に? 昨日バイトじゃなかった?」

「コピペだもーん。ブラウザーの魔術なの」

「それ、ヤバくない? チェックするソフトがあるとか言うよ」

「ムリムリ。あの准教授、いまだにスマホも使えないんだよー」

 コピペか。檜山は苦笑いを浮かべた。今どきの大学生は…、などと憤る資格は自分にはない。檜山にもネット検索で手に入れた情報を寄せ集めて、レポートをでっち上げた経験があった。

 電車はまだ到着せず、女子大生2人の会話は続く。

「マジで?」

「一応、ガラケーで十分だから、とか言ってるけど。リテラシーないみたいよー。ラッキーだよね」

「じゃ、ネットで間に合ったのか。とりあえず、適当に准教授に質問してまとめるとか言ってなかったっけ?」

 肉づきの良いほうの子は、つけ爪をした右手の指で、染めた髪を引っ張った。

「いったんはそう考えたんだけどー。でも、研究室まで行くのも面倒くさいしさー、大体、『何でも質問してくれ』なんて言われたってさ、何質問していいかもわかんないじゃん」

「言えてる」

 ショルダーバッグが、鼻にかかった声で笑った。

「あんた、そもそも授業出てないもんね。質問できるわけないか」

「それ、言いすぎー。出たよ、2回目ぐらいまでは」

「いやいや、そこ、ドヤ顔するとこじゃないし」

 顔も見えない2人の、若い笑い声がはじけた。それが合図だったように、ホームのスピーカーから、男性駅員のアナウンスが入る。

「2番線、間もなく通勤快速北大川行きが入ります。白線の後ろまで下がってお待ちください」

 檜山は、手提げ鞄を持ち直し、左側に視線を向けた。もうじき、緑とシルバーの私鉄電車が見えてくるはずだ。そいつに乗れば、家までは40分弱。

 しかし…。

 檜山は、落ちつかなげに足踏みをした。女子大生の会話を聞いて、何かが頭に引っかかっている。

 コピペ。

 手提げ鞄のサイドポケットに手を突っ込む。指先が、薄い紙に触れた。山科からの状況報告メールだ。

 檜山は、普段なるべく会社の書類を持ち歩かないようにしている。機密情報や顧客情報、個人情報に関するものが含まれていることが多いので、万一紛失でもしたら大変だからだ。しかし今日は、何となく、出がけに見ていたメールを、鞄の中に納めていたのだ。

「2番線、電車が到着します」

 注意を促す駅員のアナウンスを聞き流しながら、檜山は紙片を開いた。

 メールの文面に改めて目を通した檜山の顔が曇った。

 やっぱり。

 頭の中で、岡崎担当部長の声がリフレインした。

『山科クン、大丈夫かしら。そっちにSOSなんか上げてきてない?』

『SOSが上がらないというのも、心配なのよね』

 檜山は、唇をかんだ。

 そうか。自分の考えが足りなかった。山科からのSOSは、既に発信されていたんだ。

 檜山はサイドステップを踏んで電車を待つ列から離れると、猛然と階段を駆け上った。

<挿絵:大久保 友博>
小浜 耕己(おばま こうき)
スミセイ情報システム PMO部 統括マネージャ
住友生命保険で情報システムの開発とプロジェクト管理に従事。スミセイ情報システムに出向後、品質マネジメントシステムを担当し、全社PMOチームの立ち上げに携わる。サラリーマン稼業の傍ら小説家の顔も持つ。高校時代に書き始めて就職後にデビューした。SF、ミステリー、ホラー、ファンタジーなどフィクションの著書多数。日本SF作家クラブ会員、日本文藝家協会会員。
出典:「ストーリーで学ぶプロマネの心得 プロマネ檜山の奮闘録」(日経BP)の「エピソード14 部下からのSOS」を改題
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