3月31日に閉館し、50年の歴史に幕を閉じた「銀座 ソニービル」には、日経アーキテクチュアの記事を抜粋したレリーフが飾られていました。創刊年の1976年8月23日号「有名建築その後」の記事です。日本最初のショールームビルとして知られた同ビルについて、1966年の開業から10年間の足跡を振り返っています。当時の記事を以下に全文再録します。

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2017年3月31日撮影の「銀座 ソニービル」。1957年、現在の場所にネオン広告塔を設置。焼けたビルの1階を改装し、59年に約20坪のショールームをオープン。64年にソニービルを着工し、66年4月に竣工した。開業初期から、1日平均2万人を超える集客があったとされる(写真:日経アーキテクチュア)
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<日経アーキテクチュア1976年8月23日号「有名建築その後」から>

日経アーキテクチュア1976年8月23日号「有名建築その後」の記事(資料:日経アーキテクチュア)
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これほど多くの人々に愛され親しまれ、また大事にされている作品は他にないのではないか――。銀座5丁目、数寄屋橋交差点角にソニービルがオープンしたのは10年前。日本最初のショールームビルとして採算を度外視し、当時衰退を噂されていた銀座に人を呼びこむという狙いは完全に成功しているようだ。この建物をオルガナイズし、さらにそれを10年間支えて来た人々の言葉の中に、その成功の秘密を探ってみた。

 設計者、芦原義信氏はその当時を振り返ってこう語る。「昔の銀ブラには偶然人と会ってヤァヤァと言って話し合えるようなコミユニティーみたいなものがあった。それがあの頃は表通りに銀行がふえたりして、買物などの用がなくては行きづらい店が多くなり、寂しくなって来た。イタリアのピアッツァ(都市の広場)に興味を持っていた私は、そこでちょうど屋根のかかったピアッツァのようなものを作りたいと思った。何の用がなくても行ける、銀座のヘソになるようなものだ」。

 建築家のこういう夢が実現する最初の布石が打たれたのは昭和32年にさかのぽる。現在の敷地の一角にソニーの広告塔が掲げられたのだ。

ソニーの「やむにやまれぬ勢い」が……

 実はこの時から、同地に新ビルを建てようという議論は社内にあったらしい。だが、それが具体化するまでにはなお数年を要した。

 東京オリンピック(39年10月)を完成目標に用地買収が始められたのは37年5月。同年は米国ニューヨーク5番街にもショールームを開設するなど、ソニーにとっては世界企業として躍進の年だった。

 しかしその頃の心境を、盛田昭夫ソニー会長(当時社長)は「(1電機メーカーの事業として)とんでもないことだと思った。やるべきことではなかったのではないか、とまで真剣に考えていたのが本音」と述懐している。

 なにしろ当時日本で一番値の高い土地。つまり世界一の地価というわけだが「電気の専業メーカーであることをモットーとしてきたわれわれが、そんなぜいたくな所に、ビルを建てること自体正しいのかどうか」(盛田氏)大きな悩みだったという。

 それを結局いまの形にまで推し進めたのはソニーの企業エネルギー以外に何があったろう。「やむにやまれぬ勢い」と盛田会長は表現する。

 そんな企業が目をつけた建築家が、駒沢競技場の設計を担当した芦原氏なのだ。なぜ芦原だったのか。

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