27歳で父・丹下健三氏の事務所に入社した丹下憲孝氏は、早い時期から実作の設計に携わった。39歳で事務所を継承。47歳のときに父親が亡くなり、外からの注目を感じるなか、背水の陣で取り組んだのが「モード学園コクーンタワー」のコンペだった。(全3回のうちの第2回)

前回から読む)

「現場を止める気か」と決断を迫られる

 城戸崎博孝さん(現:城戸崎建築研究室代表)の下で初めてプロジェクト全体を任されたのが、米国シカゴの「アメリカ医師会本部ビル」(1990年竣工)でした。ショッピングストリートとして有名なノース・ミシガン・アベニューに隣接した敷地に立つ30階建ての高層ビルです。現地で隔週に開かれた打ち合わせの3分の1は城戸崎さんが同行してくれましたが、それ以外は私が1人で担当しました。

 施工が始まり、大きな決断を迫られたことがありました。地盤を掘っている段階で、構造上、柱が1本なくてもよいという議論になったのです。私が決めるのはさすがに怖くて「帰って検討します」と発言すると、事業者から「現場を止める気か」と怒られました。30~40人の関係者を前に、その場で決断を迫られました。

 結果的に1本取る決断をしたのですが、「なぜ取ったのか」という父の声が後ろから聞こえてくるようで、背筋の凍る思いでした。建築の道とは、そうした決断の連続であることを思い知らされた瞬間でした。このことは心に深く刻まれ、今思い出しても当時の記憶が鮮明によみがえってきます。

[画像のクリックで拡大表示]
[画像のクリックで拡大表示]
 
丹下憲孝氏。手元にあるのはアメリカ医師会本部ビルと同時期に担当した「パシフィック・リム・プラザマスタープラン」(1989年)の模型写真。丹下氏はシングルベッド3つ分の面積の模型を1人で抱え、ロサンゼルス市長へのプレゼンに向かった(写真:花井 智子)

同時期に丹下憲孝氏は、国内でベビーカーを製造するアップリカの本社ビル(大阪市、89年竣工)の設計も担当した。友人を通して話を持ち掛けられ、自身で初受注したプロジェクトだ。父の丹下健三氏から「あなたがやってみなさい」と言われ、事務所から独立したばかりの中川巌氏(中川巌・建築綜合研究所代表)とパートナーを組んで設計に取り組んだ。

 自分で仕事を取ってきた。ではどういう心構えで取り組むのか。やってごらんと父に試されたのだと思います。

 ほかの人であれば、「丹下先生に認められたい」というハングリーな気持ちになったかもしれません。でも私は丹下健三の息子という恵まれた環境にいた分、きちんとしたものをつくり、人から色眼鏡をかけずに見られたいという意識が強かった。「やってやろう」ではなく、「やるしかない」と腹をくくりました。

 ベビーカーをモチーフにデザインし、三角形を組み合わせたファサードとしました。幸い、建て主からは好評を頂戴し、社長宅や同社の建物など、その後の設計も委ねられる関係を築くことができました。

初めて自分で受注した「アップリカ本社」ビル(写真:守山 久子)

ここからは会員の登録が必要です。