筆者は5歳の頃から4階建ての集合住宅(社宅)に住み始め、その後も学生時代を除き、高層集合住宅に親しみ、現在は横浜の超高層マンションに住んでいる。そのため、土に対するあこがれも強く、妻の実家のいわき市で「家庭菜園」をして生活のバランスをとっている。50年近くマンション暮らしをしてきた筆者にとってみても、東横線から見る武蔵小杉の町並みは、超高層マンションが林立し、ちょっと違和感を覚えものだ。どんな「まち」になっているか、現地を歩いてみた。

中原街道からはじまった町

現在の丸子橋付近(写真:仲原正治、撮影:2013年11月25日)

 35年くらい前、武蔵小杉駅でたびたび降りて、近くの居酒屋で呑んでいた。20代後半に競馬を趣味としていたからだ。横浜から東急東横線で武蔵小杉駅に行き、南武線に乗り換えて、かつては日本で一番長い駅名だった「東京競馬場前駅」まで行き、テンポイントやクライムカイザーの雄姿を見た。競馬は負けるのが常。負けるたびにとぼとぼと「おけら街道」を歩き、武蔵小杉まで戻ってきて、みんなで一杯やって帰宅した。当時の駅近辺はごちゃごちゃしていて、近くに工場や社宅があったこともあり、呑み屋が多かった記憶がある。

中原街道の道標(写真:仲原正治、撮影:2013年11月25日)

 もともと、現在の小杉十字路付近は江戸時代に整備された「中原街道」の要所だった。近くに多摩川を渡る丸子の渡しがあり、近隣の農産物などの江戸への物流に重要な役割を担ってきた。明治以降も中原街道沿いが賑わいの中心になっていたが、1926年(大正15年)に東横線が開通して以降、中心地が変わっていく。27年には南武鉄道線が川崎―登戸間を開通させたが、小杉地区にはグランド前停留所という駅ができた。その後、44年(昭和19年)に南部鉄道線が国有化され、その時期にグランド前停留所が武蔵小杉駅と改称された。東横線は開通時には小杉付近には駅は作っておらず、45年に現在の地に武蔵小杉駅を開業した。

 当時、東横線は通勤通学客の確保を狙っていたこともあり、1929年に日吉台の約24万m2の土地を慶応大学に、31年に新丸子駅近くの3万3000m2の土地を日本医科大学に、35年には元住吉近くの約3万m2の土地を法政大学に寄付した。沿線に大学などを率先して誘致した。また宅地分譲も次々に行い、鉄道利用者を増やした。

中原街道小杉宿付近の名跡などを示した地図(写真:仲原正治、撮影:2013年11月25日)

 35年頃から南武線・東急線沿線に工場が進出し始めた。日本電気、富士通信機、荏原製作所、大同製鋼などの大企業が次々に工場をつくった。その通勤者対策として、39年には新丸子と元住吉の間に工業都市駅が開業している。

 45年に東急線「武蔵小杉駅」ができると、53年に工業都市駅は武蔵小杉駅に統合された。こうした経緯を経て、武蔵小杉駅周辺は学生の町、工場の町として、戦後は官公庁の出先機関もでき、商店街が栄えてきた。

複雑に交差する鉄道網と付近の案内図(写真:仲原正治、撮影:2013年11月25日)
東急電鉄から寄贈された土地に建つ法政二高は昭和30年代に甲子園で優勝した野球の名門校。元巨人軍の柴田勲選手の母校でもある(写真:仲原正治、撮影:2013年11月25日)