宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」が,第75回アカデミー賞アニメーション映画部門においてオスカーを獲得した時のこと,ある後輩が面白さで気が狂わんばかりになって電話をかけてきた。

 「米国人へのインタビューをやっていますから,すぐに見てください」。

 慌ててスイッチをいれると,約1時間は腹が痛くて仕方ないほど笑わせてもらった。「千はなぜカオナシをやっつけなかったのか?」「千とハクはなぜラストシーンでキスをしなかったのか?」とか。どうやったらこんな質問が出てくるのだ?と思うような質問のオンパレード。件の後輩曰く「米国人にとっては,八百万の神々はモンスターに見えるのでしょうね」。

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 しかし,冷静になって考えると,これは笑ってばかりはいられない内容であった。「千と千尋」を見てさえ,かくのごとき疑問と感想が出てくるのが米国民なのである。だからこそ,国際社会においても,正義と悪とを明白に区分したがり,自分たちを絶対正義に置きたがるのであろう。ここに極端な「エコロジー」的視点が登場する土壌を見た思いがする。

 しかし「千と千尋」のみならず,宮崎アニメが我々に示すことは,まさに正義が複数存在するという事実,そして絶対的正義などないという事実である。このことと,今日の環境思想上の大論争とを複合させた作品が「風の谷のナウシカ」であり,「もののけ姫」である。

ヒューマニズムとエコロジーの対立

 宮崎監督の映画には一貫してエコロジカルな問いが突き付けられている。それは日本で環境問題に取り組む人の多くにはまだ意識されていないが,欧米ではエコロジストを二分する問題でもある。例えば「もののけ姫」では,二つの異なった正義が戦っている。社会的な弱者を救済しようとする「タタラ」集団と,森林を守ろうとする山の荒ぶる神々。各々が代弁するのはヒューマニズムとエコロジーである。

 「タタラ場」の指導者・エボシ御前は社会的弱者を救済するためにタタラ場を開く。そこで疫病の人たちに職を与え生きていけるようにした。これはヒューマニズムの観点から言えば申し分ない「正義」であった。さらに多くの人を救うためタタラ場を拡大しなくてはならない。

 しかし,そのことは山の自然を切り崩すことを意味し,自然界の神々にとっては許せない暴挙であった。巨大なイノシシである己事主や白い巨大オオカミであるモロは人間に戦いを挑む。ここに存在するのは「自然を守れ」というエコロジーの「正義」である。双方の言い分を知った主人公アシタカが,どちらに味方するのか迷うのは当然である。

 一昔前のアニメだったら,己の懐しか考えない悪徳業者が開発しているとか,邪神が人間に戦いを挑むとかいった形での勧善懲悪が成り立っていたのだが,「もののけ姫」では,そうした解決法はとられていない。

 今から400年近く前の「もののけ姫」の時代から一転して,未来社会「風の谷のナウシカ」の舞台,人類が滅亡しかかっている瞬間に人間の指導者に要求されることは何か?

 それを使ったがために,かつて人間が滅亡の縁にまで追いやった「巨神兵」が発見された時,その問いかけが開始される。

 明らかに核兵器を彷彿させる「巨神兵」という「悪」を使い,人間を周囲から包囲し,恐ろしい毒を出しながら死滅させようとする「腐海の森」という「悪」と戦うべきかどうか。「巨神兵」を使えば「腐海の森」は焼き払えるかもしれない。しかし「巨神兵」は「開けてはいけないパンドラの箱」ではないか? ここでの選択は「正義」ではない。「より少ない悪」はどちらかというものである。

 「ナウシカ」でのこの問いも基本的には「もののけ姫」が提示するものと同じである。極限に至ったときに,ヒューマニズムとエコロジーは対立する。そのときにどうするのか? 人間の生存のために一か八か環境を変えようとするのか,それとも周囲の環境に任せておくのか?

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